⑺ 「経序」がない、または文献に有無の記載がない石刻資料であれば、武則天時代(690〜704)に■る作例を挙げることができる。現段階で最も早い作例は天授2年(691)の北京郊外房山雲居寺石経第7洞77の『仏頂尊勝陀羅尼経』であり、次が翌年如意元年(692)の龍門石窟蓮華洞外刻経と考えられるが、いずれも「経序」はない。金石文献によれば、経幢にも神功元年(697)とされる山西省寿陽県崇福寺の幢(『山右石刻叢編』巻5、序の有無は不明)や、長安2年(702)の河北省本願寺の僧知■等尊勝経幢(『常山貞石志』巻7、序はない)の他、山西省、陝西省などに則天文字を含む経幢があったことが知られている(『関中金石文字存逸考』巻7ほか、序の有無は不明)。また、本助成申請時に「経序」現存最古の可能性があると考えていた河北省正定県開元寺三門楼石柱は、調査の結果、『仏頂尊勝陀羅尼経』と「経序」刻文を如意元年(692)の三門楼創建時まで■らせることはできず、「経主周従直」の題記等から、むしろ乾元元年(758)の追記に近い頃であろうと判断した。⑽ 原書の図183右。原書の漢字記録は縦書きで、「?」は「陳」の右側に付されている。⑾ 賀世哲「敦煌莫高窟供養人題記校勘」(『中国史研究』1980年第3期、北京・中国社会科学出版社)、同「従供養人題記看莫高窟部分洞窟的営建年代」(敦煌研究院編『敦煌莫高窟供養人題記』文物出版社、1986年、203〜204頁)⒀ 秋山光和「唐代敦煌壁画にあらわれた山水表現」(敦煌文物研究所編『中国石窟・敦煌莫高窟』⒂ 龕頂画は従来釈尊の■毘羅衛城帰還および羅■羅出家といわれてきたが、近年西林孝浩氏と頼鵬挙氏により金剛経変の莫高窟最古例であることが明らかになった。西林孝浩「第217窟小考」(『朝日敦煌研究院派遣制度記念誌』(朝日新聞社、2008年、111〜115頁、図版16〜17頁)。頼鵬挙『敦煌敦煌石窟造像思想研究』第七章(二)(文物出版社、2009年、217〜220頁)。5、平凡社、1982年、196頁注12)。― 185 ―⑻ 『石刻資料新編』第18冊、台湾・新文豊出版公司、1982年。⑼ Paul Pelliot, Grottes de Touen-Houang : carnet de notes de Paul Pelliot : inscriptions et peintures murales / avant-propos de Nicole Vandier-Nicolas ; notes preliminaires de Monique Maillard, V. 2, Paris : College de France, Instituts d'Asie, Centre de Recherche sur l'Asie Centrale et la Haute Asie, 1983, pp. 38−41, 76. 同書には中国語訳(耿昇・唐健賓訳『伯希和敦煌石窟筆記』甘粛人民出版社、1993年)があるが、原書の図版番号におそらく編集時の混乱があると思われたため、ここでは原書の方を使用した。⑿ 池田温氏は『敦煌名族志』の成立年代を景龍4年(景雲元年710)頃と推定されている。池田温「唐朝氏族志の一考察─いわゆる敦煌名族志残巻をめぐって─」(『北海道大学文学部紀要』13−2、北海道大学文学部、1965年)。⒁ 山崎淑子「敦煌莫高窟における初唐から盛唐への過渡期の一様相─莫高窟二一七窟試論─」図版出典図1、2:呉健撮影『敦煌仏影』(台湾・芸術家出版社、1998年)156頁、55頁より図3〜6:筆者による現地調査スケッチの描き起こし図7〜13:筆者による描き起こし(『成城文芸』174、至文堂、2001年3月)など。1975年)754頁による。
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