2、「cine-memo」の概要さて、上述のフィルムに収められたのは、大阪中之島にあった、植物油を商う父・定次郎が経営する吉原定次郎商店、同商店主催の運動会や旅行、西宮今津の製油工場、稲荷祭などの祭事、そして吉原の家族であり、とりわけ1931年8月に誕生した長男・眞一郎、1933年2月に誕生した次男・通雄に関する映像は数多く、吉原の家族に対する思いの強さが率直に反映されている。これらは、1930年代前半の生活や工場をつぶさに記録している点で社会史・文化史的に貴重であることはまちがいなく、また撮影の手法自体に吉原の作家としての斬新な視点が窺える意味で、今後さらに検証すべき映像資料であろう。ただ本稿では、これらとは一線を画する映像が1本存在することに注目したい。それは、吉原が対象を記録するというよりもむしろ、フィルムの一コマ一コマや、そのつながりを構成することに力点を置いた短編映画とも呼べるものであり、「cine-memo」〔図2〕と題されている。― 190 ―って明らかになった。その他の1930年代の16ミリフィルムについては、当時市販されていたと目されるサクラクラブ制作の山岳映像3本(注3)を除くと、撮影された対象、箱や缶に記載された文字の筆跡、そしてご遺族の証言により、おそらくすべて吉原自身であると考えて間違いない。そしてコダック製の50フィート(15.24メートル、約2分)、100フィート(30.48メートル、約4分)の16ミリフィルムの外箱には値札や販売店のシールが残っており〔図1〕、それらを参照すると、50フィートが6円75銭から7円、100フィートが10円50銭から13円、1本のみ含まれているカラーフィルムは50フィートで16円であったことが分かる。これは、当時の小学校教員の初任給が45円から55円、白米10kgが2円前後であったことを考えれば非常に高価であり(注4)、吉原の生活水準の高さを改めて実感させる。カラーフィルムは外箱に1937年6月7日現像の印が押されており、日本初のカラー映画が同じ年に公開されたことを考え合わせれば、吉原が1935年にコダックから発売されたばかりのフィルムをいかに速やかに購入し撮影を試みたか、そして映像に対してどれほど強い関心を抱いていたかが明らかとなるにちがいない。また、値札と同様に貼付された販売店のラベルより、吉原がフィルムの多くを自宅(兵庫県武庫郡精道村樋口新田)から歩いて約5分の阪神国道筋業平橋東詰にあった「南桃商会」か、神戸トアロードにあった「神戸南桃商会」で購入したことが窺える。このように吉原旧蔵のフィルムは、外装のみでも彼の経済的余裕と、映写機材を手近で揃えることのできた環境を証する。
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