鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3、「cine-memo」各短編次に各短編へと眼を向けたい。まず「1」は、上記のとおり鶏をモティーフとしているが、同じく鶏を撮影した他の映像と比較した場合、次の点が特徴的である。第一に、クローズアップを多用し、吉原が対象により迫っている点である。先に言及した朝の情景の映像では鶏小屋全体が写されており、それが庭にあってどの程度の大きさか、また鶏が小屋の中で何羽飼われているかをたやすく読み取ることができ、鶏が置かれた現実の環境を見る人に伝える。また、千代が餌をやりに入って行く様子が挿入されるため、鶏は朝の習慣の一コマに登場する一事物として見る人に理解される。つまりこの映像では、日常の情景という物語の文脈があらかじめ措定され、その中に鶏は位置づけられている。― 192 ―ロシア絵本をいち早く収集しており(注6)、そこで得られた知見を映像製作にも反映させたと考えられるが、その点は稿を改めて検討すべき課題である。それに対して「cine-memo」では専ら鶏を注視する視点が強調され、しかも鶏は部分を拡大されたかたちで映し出される。頭部の場合はまだ鶏と分かるが、他の部位のクローズアップはすぐさま鶏とは判別し難く、白い密集した毛の塊が微風でふわふわと揺れる様子がただ目の前に提示される〔図5〕。その白い塊は突然大きく動いて頭部が現れ、首の部分だとようやく分かるのも束の間、場面はすぐに別の角度からの映像へと転換してしまう。さらに鶏を鶏として認識し辛くしているのは光の強さである。直射日光の元では必然的に小屋の部材の影が鶏の上に落ち、光に照らされた白い部分はより白く、影になった部分はより黒く見え、結果として鶏全体の形が不明瞭となっている。また小屋に張られた網は光の反射で白く浮き上がり、その奥にいる鶏との距離感が曖昧にされる。このように、鶏や小屋という具体的な事物の描写というよりは、光と影のコントラストに基づく白と黒の造形に力点を置く姿勢が、第二の特徴として挙げられるだろう。それ以後の「2」から「5」もすべて、「1」と同様に吉原の造形意識が強く打ち出されている。「2」で吉原は、電線に止まる燕の動きを様々な角度から追うが、その恣意的な動きをただ忠実に撮っているわけではない。燕は、二羽から一羽へ、一羽から二羽、三羽、四羽、五羽、そして再び二羽へと、細かなカットの編集によって数が変化していく。その際、見る人の眼を引きつけるのは、複数の電線が画面を分割する様であり、またその電線にほぼ均等に燕が並ぶ様であろう。ここで電線は、あたか

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