4、写真・映像の視覚以上の考察から明らかになるのは、いずれの短編においても、吉原にとって極めて― 193 ―も矩形のキャンバス上に引かれた直線のように、燕は直線上に打たれた点のように見える〔図6〕。そして燕が一羽ずつ増える様子は、まるで絵筆を置いていく画家の制作過程に立ち会っているかのような感覚を見る人に想起させる。次に「3」では水中を泳ぐ熱帯魚が登場するが、「1」「2」と比較した場合、対象が不鮮明で画面全体が暗い。これは、もちろん当時の映写機自体の性能にも起因するであろうが、むしろ吉原の意図が熱帯魚の生態を微細に記録することにはなかったからと考えるのが妥当ではないか。なぜなら「3」は、「cine-memo」という映像全体の構成に眼を向けたとき、他のパートとの連関がはっきりと浮かび上がるからである。まず「3」に見られるモティーフのゆるやかな動きや、闇が支配的な画面〔図7〕は、機敏で突発的な動きを自然光の元で明瞭に映し出した「1」「2」と好対照を成していることに気づく。また、続く「4」「5」も含めて考えた場合、吉原の構成的意志はいっそう明確となる。「4」は強い日光が降り注ぐ海、「5」は花火の打ち上がる夜空がそれぞれ舞台だが、「3」を挟んで前半、後半はモティーフがすべてくっきりと捉えられており、あえて不明瞭な「3」を映像の中央に挿入することで、全体としては視覚的表現に多様性が生まれている。その一方で「3」はクローズアップという手法で「1」と、モティーフに縞模様が見られる点で「4」と、さらには暗闇を背景とする点で「5」と、それぞれ共通性を有し、映像全体のつながりが保持されている。続く「4」は、寄港した大型客船がモティーフである。ここでも吉原の視線は対象の造形性へと向い、その形態的特徴を丹念に追い求める。とりわけ画面手前を斜めに横切るロープと、遠方に広がる海、水平に移動していく船を一つの画面に収め、固定のカメラで捉えたショット〔図8〕、あるいはカメラを水平移動して港を望む際、対角線上にのびる複数のロープを手前に映し込んだショットには、画面の枠と構図を意識する吉原の姿勢が明示されている。最後となる「5」では花火が取り上げられるが、夜空を背景にした花火の軌跡はまるで、黒い画面上を奔放に動き回る白い描線のようであり、描画という行為すら思い起こさせる。ただし絵画では実現し得ない表現を試みている点も見過ごすべきでない。それは、あえて焦点をぼかして撮影された打ち上げ花火のショットで、黒地に白い大小の円がふわりと浮かび上がり消えていくイメージ〔図9〕は映像特有である。
元のページ ../index.html#204