鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 尾崎信一郎「吉原治良と写真の視覚」『吉原治良研究論集』吉原治良研究会(ポーラ美術振興⑶ うち2本は「春の日本アルプス 槍・穂高」と「山の魅惑」と題されている。⑷ 森永卓郎監修『物価の文化史事典:明治/大正/昭和/平成』展望社、2008年、30頁および⑹ 芦屋市立美術博物館・東京都庭園美術館監修『幻のロシア絵本 1920−30年代』淡交社、2004― 196 ―⑵ 「没後30年 大研究 吉原治良をめぐる6つの眼」展(芦屋市立美術博物館、2002年9月7日〜10月14日)、「コレクション遊覧 旅するまなざし」(芦屋市立美術博物館、2007年4月8日〜6月3日)。⑸ 時折吉原自身が登場するのは、おそらく一時的に映写機を第三者に渡し、吉原を撮影するよう⑺ 河崎晃一「吉原治良の写真資料について」『なりひら』第8号、芦屋市立美術博物館、1992年科展に続いて第2回めの個展を東京銀座の紀伊国屋ギャラリーで開くなど、画家として一気に注目を集めるようになった記念すべき年であるが、そこに至るまでの約6年間、進むべき方向性を求めて試行錯誤を繰り返していたであろうことは想像に難くない。まさにその時期に、吉原の生涯で一番多くの映像を撮影したというのは決して偶然でないだろう。もちろん家族が増えるという個人的環境の変化も大きな要因であったとは考えられるが、新しい表現への足がかりを得ようとした画家としての意志もまた、吉原を映写機に向かわせた原動力だったのではないか。おそらく藤田の忠告を受けて以後の吉原にとって、魚を描いた時代に前提としていた現実をいかに切断するか、そこからいかに跳躍するかが、大きな課題の一つとして設定されたであろう。そうした状況の中で映写機は、尾崎氏が写真に関して語った「ヴィジョンの変形」を、写真以上に実現する機器として試用され、その実験結果が「cine-memo」と見なせるのである。そして、写真機・映写機といった光学機器を介して得られるヴィジョン、言い換えれば現実空間の変容によって得られる新しい視覚は、吉原が1930年代半ば以降、純粋抽象の作品を実現する上でも、書籍図版と並んで重要な基盤の一つとなったにちがいない。その頃になると撮影された映像が数少なくなるのは、もはや吉原が映像を参照せずとも、絵画の上で吉原自身が望む、現実とは一線を画した造形を実現できるようになったからではないか。このように「cine-memo」は、いまだ十分には検証されていない、1930年代初頭における吉原のスタイルの展開を巡る議論に重要な一石を投じ、吉原研究にさらなる広がりを与える貴重な資料と言えるのである。398頁。財団助成)、2002年、41−53頁。依頼しているためと思われる。年。

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