1.ネットワークとしての民芸運動民芸をめぐる柳宗悦らの活動は、しばしば「民芸運動」と称されるが、上部組織のもとで統制のとれた運動を展開するといったものではない。むしろ個々人やグループが、一定の「民芸」思想を共有しつつ、実際は自分の興味や能力に応じて活動を行っていたようである。富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司らは作陶に従事した。また上賀茂民芸協団は実験的な工房を組織し、鳥取の吉田璋也は新作工芸の製作、大阪の三宅忠一や松本の池田三四郎は産業の育成に向かった。松井健が指摘するように、こうした個々の動きがゆるやかに結びついてある種のネットワークを形成し、その結節点に― 201 ―⑲ 民芸運動の原風景─浅川伯教の工芸論と実践を中心にして─研 究 者:大阪市立東洋陶磁美術館 学芸員 鄭 銀 珍はじめに日本の「民芸」もしくは「民芸運動」が成立するうえで、朝鮮半島の美術工芸が決定的な役割を果たしたことは、あらためて言うまでもない。その朝鮮に柳宗悦をいざない、ともに工芸品の発掘と紹介に努めたのが、浅川伯教、巧の兄弟であった。三人の活動は、雑誌『白樺』「李朝陶磁器特集号」(1922年)で朝鮮陶磁の美的価値をはじめて高らかに宣言し、1924年に朝鮮民族美術館を開設したことによって、ひとつの頂点を迎えた。ところが、このおなじ1924年、柳宗悦は、山梨で偶然に木喰仏を目にしたことから、急速に日本の工芸品へと興味を移してゆく。そして1926年には富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司らと「日本民芸美術館設立趣意書」を発表し、通常、このときから民芸運動が始まるとされる。柳はその後も朝鮮半島に通いつづけるが、民芸運動の展開にとって、朝鮮の工芸はもはやかつてのような大きな意味を持つことはなかった。すくなくとも、研究者はそのように考えてきたようである。そのため、1924年以降に浅川兄弟がどのような活動を行ったのかについても、高崎宗司や李尚珍などの論考があるものの、それは思想史研究に傾き、もっとも重要な実践面については、ほぼ研究がなされてこなかった。これにたいして筆者は、浅川伯教が朝鮮半島の地方窯に赴いてみずから作陶し、その特徴を学びつつ、さらにそれをとおして産業の振興を図ろうとしていたことを、指摘した(注1)。本稿ではこの点をふまえながら、戦前期の浅川伯教の活動を、日本の民芸運動史のなかにより大きく位置づけるための、基本的な視点を提示してみたい。
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