2.運動の始まりと朝鮮半島1914年、彫刻家を目指していた浅川伯教は、ロダンの彫刻を見せてもらうために我孫子を訪ね、柳宗悦と知り合う。柳は2年後の1916年に、浅川兄弟の案内ではじめて朝鮮を旅行して朝鮮の工芸品に開眼する。さらに、1919年の三・一独立運動に際して、― 202 ―あって全体を見通しつつ民芸の理論化に努めたのが、柳であったと考えられる(注2)。結びつきがゆるやかだからこそ、やがて柳とは距離を置く人物が現れることにもなる。「民芸」とは、無名の職人の手によって作りだされた、実用性と美しさを備えた民衆的工芸のことであるが、そのような工芸に価値を見いだす考え方も、けっして柳がひとりで到達したのではない。柳宗悦自身が指摘しているように、類似した思想が、ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動のなかですでに出現しており、柳の周辺にいた人物としては、バーナード・リーチと富本憲吉が、はやくにこの運動に触れていた。この3人は1911年頃までには、日本でたがいに知り合っていたようである。またこの頃リーチは陶芸を始め、ややおくれて富本もそれに続く。そしてリーチによれば、3人は、「自分たちの夢を取り交わしはじめていた」という(注3)。このなかで、西洋のアーツ・アンド・クラフツ運動を含め、さまざまなことが議論された(注4)。リーチはまた朝鮮陶磁についても、大正元年(1912)に富本憲吉とともに訪れた拓殖博覧会で、「あの土を買って試作をやって見たい、見給え、今の朝鮮焼だって未だ美しい部分を日本のものよりはよく保存している」「どうだ朝鮮に行って見ないか、君朝鮮に行って土や薬を探すのは今のうちだよ」と言ったという(注5)。二人がこのとき見たのは、朝鮮総督府の工業伝習所で作られた新しい製品だったが、それでも、柳よりもはやく朝鮮の陶磁に注目していたのである。以上のように、柳の周辺では、すでに西洋のアーツ・アンド・クラフツ運動が受容され、朝鮮の陶磁も注目されていた。また厳密にいえば、柳はすでに1911年に、東京神田の骨董店で朝鮮の青花牡丹文壺を購入していたという。ただし、その壺が柳に大きな影響をあたえた痕跡は見いだせない。それでは、1914年以降の柳と浅川兄弟との出会いは、なにを意味するのだろうか。柳はそののち、堰を切ったかのように朝鮮工芸へ、なかでも陶磁器や木工品などの、個別的な物へと没入してゆく。ここから判断すれば、おそらくそれまでやや抽象的な議論に終始していた柳、富本、リーチたちの「夢」に、浅川兄弟が朝鮮の工芸という、物自体を提供した、と考えるべきだろう。柳は浅川兄弟によって、自分の思想を具体化する素材をあたえられたのである。
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