― 203 ―日本の植民地政策を正面から批判する文章を発表したのち、翌20年から頻繁に朝鮮に通いはじめた。この頃までには、浅川伯教は富本やリーチとも知り合っており、柳を中心とするネットワークのなかに、浅川兄弟もいよいよ足を踏みいれた。柳宗悦と浅川兄弟は、いくつか重要な点でものの見方を共有している。たとえば柳は、「彫刻の味いがある」(1920年)(注6)、「あの一つの壺も一個のトルソーである」(1921年)(注7)など、陶磁器を彫刻になぞらえているが、浅川伯教も、「李朝の白磁は大理石の様に透明な陰を持って居る。(略)これは全く彫刻の効果だ」(1922年)(注8)、「私は彫刻をやりまして、(略)其の眼を、朝鮮の李朝の壺に向けて見たのであります。(略)さうして其の持って居る線と色沢とが全く活きた、一つの象徴されたトルソーのやうに感じられました」(1934年)という(注9)。さらに朝鮮時代の陶磁の位置付けについて柳は、「その形に於ても、再び線に於ても、またあの釉薬に於てもそれは固有の美を示している」(1921年)(注10)、伯教も「李朝に至って真の固有の色彩を表現して居ると云ひたい」(1922年)という(注11)。これらはいずれも、文章が発表された年度から見るかぎり柳宗悦のほうが早い。しかし、朝鮮の陶磁器についてはむしろ浅川伯教のほうが詳しいはずであり、また伯教はそもそも彫刻の専門家である。したがって、柳の方にオリジナリティーがあり、伯教はそれを真似たと考えるべきではなく、柳宗悦と浅川兄弟がたがいに意見を交換するなかで形作られたものの見方を、それぞれが文章のなかで表現したと、理解すべきだろう。こうして柳は、浅川兄弟とともに1921年1月に朝鮮民族美術館の設立を計画し、その準備として、東京と京城でかさねて朝鮮工芸の美術展を開催したのち、1924年の開館にいたる。その収蔵品は、一部に貴族的な工芸品が含まれるものの、多くがのちの「民芸」に通ずる日常生活用品であった。一方で伯教は、前年の1923年末から地方窯の調査に着手し(注12)、1926年、27年ごろからは、地方窯で作陶にも従事しはじめた。ここで注目されるのは、こうした一連の動きがその後の日本での民芸運動の原型になっていることである。収集品の発表および啓蒙のための展覧会の活用、工芸の専門美術館の設置、そしてなによりも重要なのは、工芸品が骨董店等へ流れてくるのを待つのではなく、みずから地方に赴いて調査する、地方への視点である。1916年から19年にかけて富本、リーチ、柳らと出会っていた浜田庄司は、1924年から本格的に益子に入った。また1927年末、柳は河井寛次郎、浜田庄司らとともに、日本の東北、山陰、九州へはじめて伝統工芸の調査と、実物収集の旅に出る。1931年以降はそのような調査旅行の頻度が増し、同年に創刊された『工芸』誌で調査の成果を紹介するとともに、高島屋その他で展覧会を開き、世の中への紹介につとめた(注
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