鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3.伯教と地方窯じつはこの点で、浅川伯教は一歩先を進んでいたと思われる。その先駆性を明らかにするために、1936、37年になって柳がようやくふたたび行った、朝鮮半島での本格的な民芸調査旅行を取りあげてみよう。このうち河井■次郎や浜田庄司も同行した1937年の旅行では、主要な目的地のひとつが全羅南道谷城の「下汗里」であり、柳らはこの窯場で、茶碗や皿、壺などを数百個注文した(注14)。当時、谷城の窯はほとんど無名だったと考えられる。しかしほかでもなく「下汗里」にわざわざ立ち寄り、しかも注文まで出したのは、なぜなのか。ここには、1924年に柳がやや朝鮮から離れて以降の伯教の活動が、ふかく関係していると思われる。― 204 ―13)。こうして柳らは、その活動のなかに本格的に「地方」を取り込むようになる。その後の伯教の仕事は大きくふたつに分けることができる。ひとつは朝鮮全土にわたる古窯跡調査および日本での高麗茶碗伝世品の調査である。これらはこれまで研究者によってしばしば言及されてきた。もうひとつは、当時操業中だった地方窯の調査と、そこでの作陶であり、さらに伯教は、地方の陶磁産業の復興を考えていた。日本の民芸運動のなかで明確にこのような立場を取ったのは吉田璋也と三宅忠一だが、吉田が民芸運動にかかわり始めるのは1930年ごろ、三宅の場合は1935年のことである(注15)。これにたいして伯教は、前述のように1923年末ごろから地方窯の調査に取りかかり、1924年に半島北部の咸鏡北道明川窯を視察した後、1925年頃からおなじく咸鏡北道の会寧で、毎年一回ずつ現地の陶工を指導し(注16)、1926年からは高敞で製陶の実験に従事し(注17)、そして1933年には谷城の「下汗里」で作陶した(注18)。以上、伯教は、おもに会寧、高敞、谷城などで作陶し、その作品を見る限りいずれもそれぞれの地方窯から謙虚に学び、その特徴を忠実に写そうとしている(注19)。これが、伯教の考えていた伝統産品のひとつの具体的な姿であった。つまり、谷城は浅川伯教がふかくかかわった場所であり、柳宗悦らは伯教からの情報にもとづいて同地に入ったと考えて、まず間違いないだろう。なぜなら、1936年の調査ののち、柳らの依頼によって伯教が中心となって民芸品を調査し、「朝鮮工芸概観」として『工芸』に発表したが、そこに紹介された操業中の窯場19か所のなかに「谷城」と「高敞」が含まれているのである(注20)。1930年代の柳宗悦らの興味にすぐに接続できるような土壌を、浅川伯教は1924年以降の独自の活動のなかで、すでに蓄えていたのである。

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