4.韓国に残されたもの─谷城それでは、産業の復興面はどのようになっていたのだろうか。会寧についてはある程度詳しいことが判明している。それなりに成功して崔冕載という陶工が育ち、すくなくとも1930年代のなかばまでには、その家族と従業員合わせて130人の生活が成り立つまでになっていた(注21)。しかし、伯教がかかわった会寧以外の地方窯については、これまで不明のままであった。2010年に筆者は、全羅南道谷城郡と全羅北道高敞郡で現地調査をすることができた。そこでは、浅川伯教や柳宗悦といった人名は現れなかったものの、日本人がたしかに関わっていたことが確認できた。― 205 ―1937年の柳宗悦の記録では、「画を描いて寸法を定め注文にとりかかる。天目と白磁との両方である」という。上述のように谷城では白磁と天目(黒釉)が焼かれ、その陶片が今でも残っている〔図2〕。また、柳らが訪問した年代が、筆者の現地調査まず韓国西南部の内陸に位置する谷城を見てみよう。場所は前述の谷城郡竹谷面下汗里である。浅川伯教自身、別の窯場を調査しているときに、「途中で沢山の陶器を背負った人に会」い、偶然ここを発見したのだった。「この陶器は他に見る事の出来ない少し赤みを帯びた淡紅色の貫入が細かにある、温かく柔い焼物であった。(略)土の具合が非常に素直で焼上りも誠に気持がよい」ものだという(注22)。戦前の谷城には、同時に操業していたわけではないが窯場があわせて3か所あり、工房は成形、胎土の水簸など分業体制で10名ほどが働いていた(注23)。現在、その窯跡のひとつでは、窯が壊され地形は大きく変わり、周りに陶片と窯道具が散乱している〔図1〕。そこでは韓国人向けの製品としては白磁も作ったが、小壺など小型の黒釉の製品が中心になっていたという。白磁より黒釉がずっと安くてよく売れるほかに、原料の黄土がどこでも簡単に入手でき、また白磁は食べ物の浸みが残ってあまり好まれない、という理由もあった。一方、1935年か37年頃、3人ほどの日本人が突然来て、製品を注文したという。その製品は、水注、湯飲み、花瓶などで、白磁胎に少し青みを帯びる釉色で、貫入が入ったものだった。さらにある日、インクのような液体を持ち込み、これで絵を描けば焼きあがっても滲まないといって勧め、つぎは紙型を持って来て、草花文、動物文などを描くようにといい、描かれた文様は青色に焼き上がったという。おそらくコバルトによる青花白磁だろう。日本人からの待遇はよく、収入もよかった。2、3か月に1回は注文があり、それが2、3年ほど続いた。谷城ではおもに現地人向けの黒釉の廉価品と、日本人向けの白磁や青花白磁の高級品を作っていたことがわかる。窯では、炎がよく上がる二室か三室に日本向けの注文品を入れたという。
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