5.韓国に残されたもの─高敞つぎに韓国西南部の海近くに位置する高敞郡について紹介してみよう(注24)。ここでは、1930年代半ばに古水面沙器店というところに「高敞産業組合」が設立され、その下に窯が何か所かあったという。きっかけは、そのすこし前に東京の「愛陶家の団体」がやってきて、日本人が好むような茶碗があるので生産しないかと提案したことによる。こうして愛陶家たちが資金を出して高敞産業組合が作られ、またかれらが京城から連れてきた「清水かつお」という人物が専務として両者の仲立ちをするようになった。清水は創氏改名した韓国人で、東京にも留学し、そこでこの愛陶家たちと知り合ったようである。この地方の陶工である柳吉相が彫刻、釉薬など全般を担当し、その下で弟の柳夏相が文様を、また羅万同が成形を担当し、このような分業体制のなかで7、8人が働いていた。産業組合には陳列所と直売所があり、製品ができて日本に連絡すると、日本から人が来て買っていった。― 206 ―の結果ともほぼ一致する。確証はないが、1935年か37年頃にやってきたという日本人は、柳たちであった可能性が非常に高い。そしてこの窯の存在の情報源としては、浅川伯教以外には考えられない。なお谷城の窯は、そののち火事によって焼失したという。その工房跡や窯跡が現在残されているが、窯自体は壊され、周辺にはいまでも粗雑な碗と皿の破片が散らばっている〔図3〕。もともと沙器店では、韓国人が日常使う白磁の碗や鉢、皿がほとんどだったが、一方、産業組合で作って日本へ輸出したのは、白磁の碗が多かったという。それは高台から斜めに直線的に広がった形だった〔図4〕。1937年に谷城からの帰途、柳宗悦らは長城というところで偶然に目にした高敞の碗を注文しているが、それと同じである〔図5〕。このほかに窯跡の陶片には、少数ながら在来の朝鮮陶磁とは異なる雰囲気をもつものがいくつか目立った。たとえば、①粉青沙器の模倣作品、②近代風の文様を型紙で描く鉄絵、③④日本から輸入した人工コバルトで描いたと思われる、朝鮮伝統とは異なる幼稚な文様の青花〔図6〕、などである。以上のような経緯で始まった高敞産業組合は、在来の朝鮮風の碗のみならず、日本風のものも生産しながら、脈々と仕事を続け、窯業はうまくいったという。さて、この高敞産業組合は、1940年代から日本からの支援がなくなり、「清水かつお」が個人的に組合を運営していたが、1950年代に朝鮮戦争のなかで一家すべてが殺害されたという。そして、残った家には組合の陶工だった羅万同が入り、戦後も引き続き陶磁器を焼いた。その産品は、戦前には「高敞焼」と呼ばれていたが、戦後も日本へ
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