― 207 ―輸出されることがあり、日本人からは「古水焼」と呼ばれるようになった。また1970年代に北海道ライオンズクラブが記念品として古水焼の茶碗千個を注文し、かつて産業組合のメンバーだった羅万同と柳夏相がいっしょに作って、コバルトで「古水」と銘を入れて納品したという〔図7〕。おわりに「民芸」は、日常的かつ実用的な生活用品のなかに美しさを見出そうとする思想であり活動だったが、近代化、産業化の進みつつあった日本では、そのような生活用品は、もはや都市ではなく地方でわずかながら生産、使用されるのみだった。そこで、「地方」が民芸の重要なキーワードとなる。こうして、そもそも「大日本帝国」にとっての「地方」である朝鮮半島で「民芸」が発見されたのち、益子をはじめとする日本本土の各地に及んで発展を遂げつつ、日本の周辺地域である沖縄やアイヌ、そして最後には台湾や満州にも視野の拡大を見せはじめる。この運動にかかわった人たちは、ゆるやかなネットワークを形成し、たがいに意見を交わしながら、それぞれの仕事に従事していたと思われる。そのなかで浅川兄弟は、柳宗悦を朝鮮の工芸へといざない、ともに朝鮮半島で、のちの民芸運動の原型となるような活動を展開した。さらに兄の伯教は、はやくから地方に関心をもち、「部落々々に小さな仕事を持たせることは朝鮮としては今の内に考へねばならない大きな問題です」と、経済面にも着目していた(注25)。そして会寧窯では一応の成果を収め、また他の2か所の窯では、1930年代半ばに「3人ほどの日本人」が谷城を、また「東京の愛陶家の団体」が高敞を訪れて、製品を注文した。当時、このような地方窯を日本人に紹介できた人物としては、古窯、操業中の窯を問わず地方窯研究の第一人者であり、日本の愛陶家とも関係の深かった浅川伯教を、まず想定すべきだろう。それが、柳宗悦、高島屋での展覧会、東京の愛陶家へ、もしくは伯教から直接に愛陶家へとつながっていったと考えたい。そして高敞では、じつに1970年代にいたっても日本から注文を受けることがあった。浅川伯教の地道な活動から出発したと思われる動きが、ながく継続したのである。韓国人研究者は通常、植民地期の韓国陶磁器を、日本趣味が加わって韓国の伝統を変質させたものと位置付けている。だが、陶工もまた人間であり、生きてゆかねばならない。そのころ陶磁器は、日本から大量生産品が大規模に流入し、また日本資本によって朝鮮内にも大工場が建設されていた。その圧倒的な力の前で、伝統的な陶工たちには、ほかにどのような道が残されていただろうか。しかも浅川伯教は、伝統に忠
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