― 212 ―⑳ 酒井抱一の仏画制作とその背景─日課観音図を中心に─研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 博士後期課程 木 下 明日香はじめに酒井抱一(1761−1829)は尾形光琳に私淑し、代表作《夏秋草図屏風》(東京国立博物館所蔵)をはじめとする多数の花鳥画を制作したため、琳派の画家として位置付けられてきた。しかしながら、抱一は、花鳥画だけでなく、仏画も制作しており、その質・量ともに無視できない一群を形づくっている。確かに現存する作品の大半が花鳥画であるが、抱一の仏画は細部まで丁寧に描かれ、制作に多大な情熱を注いだと思われる。また、弟子たちにも仏画が多く散見され、かつ、江戸琳派の画家が得意とする花を組み合わせたものが多い。抱一の仏画研究については、玉蟲敏子氏が、出家前は浮世絵美人画の作例が多く、出家後は、「女性的な仏画」の作例が多いことから、抱一の女性像に対するオマージュが形を変えて表れたとする論考(注1)の他、いくつかの作品解説(注2)が存在する。しかし、抱一が、なぜ花鳥画の画家として名を挙げながら仏画も同時に制作するようになった理由や、その制作の際に参考となった絵画についてはこれまで明らかにされてこなかった。これらの疑問を少しでも解き明かしたいと感じたのが、本研究のはじまりである。しかし、江戸期における仏画研究自体あまり行われておらず、抱一の仏画に対する手掛かりも少ないことから、筆者は、まず、谷文晁との関わりに着目した。抱一と文晁とが全く同じ図様を持つ作品を描く例は、少なくとも五例(注3)が確認できる。文晁は多くの縮図や手控えを残し、それらの資料を検討することで、抱一の仏画に対する新知見が見つかるのではないかと考えた。近年、三井記念美術館に寄託された抱一筆「水月観音図」が公開された際、同図様の谷文晁筆「慈母観音図」(山形美術館所蔵)(注4)が紹介され、文晁画をみて抱一画が描かれたのではないかという見方があった(注5)。文晁が松平定信に命じられ『集古十種』を編纂したこともあり、文晁の方が抱一よりも古画に通じていたというイメージが流布していることは否めない。しかし、本当に抱一は文晁を通してしか、古画を見ていないのであろうか。本稿では、文晁との共通作例の内、「日課観音図」の事例を取り上げて比較検討を行い、「水月観音図」と「慈母観音図」にも若干の検討を加え、その後、抱一と仏画
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