1、日課観音図の場合⑴ 酒井抱一筆「日課観音図」と谷文晁編『本朝画纂』― 213 ―制作についての私見を述べたい。抱一は文政七年(1824)に日課観音像を描いた〔図1〕(注6)。白衣を着した観音の図を墨で簡略に描いた小品で、画面上部中央に「文政七年甲申五月日課三十三幅之一」の印を捺し、かつ、画面右下には、「等覚院抱一暉真拝写」の落款の他、一日、二日などの日付が書き込まれている。「一日」、「二日」の他、現在「二十日」、「六月朔日」と書かれた四作例が確認されている。印中に「五月」とあり、「一日」「六月朔日」の日付を有することから、五月一日から三十三日間、一日一幅ずつ描かれたものと推測される。この日課観音図とよく似た図様をもつ例が、谷文晁が眼にした古図を縮写して編纂した『本朝画纂』に所載される〔図2〕。その図は、抱一画と同様に、画面右下に「十日」の日付を有し、観音の面貌表現はやや異なるものの、頭に頭巾を被り、結跏趺坐する姿は抱一画とかなり近いものである。『本朝画纂』は一頁に一図を掲載し、図の横には説明が附されるが、この観音図には、以下のような説明がなされる。「平政子ハ北条時政ノ女ニ頼朝卿ノ室家 卿薨シテ後尼ト為ル 法名如宝二位尼ト称ス 鎌倉寿福寺釈尊像 宋人陳和卿作年世久遠頗ル破壊ス元禄中修補セント欲シ 拓キ之中ヲ見ルニ観音画像二十許片有リ 毎紙日ヲ画キ蓋シ日課画ク所也 狩野常信定テ平氏画ト為ス 大徳寺天倫和尚所記ニ詳ナリ 筆法婉暢書跡ト同轍狩氏之鑑誤ラズト為ス」とある。要約すると、宋人・陳和卿が制作した鎌倉・寿福寺の釈尊像に補修の必要性があり、修補しようと中を見ると、二十片ばかりの観音画像があった。紙ごとに日付があり、日課として描いたものであろうと考えられ、狩野常信が北条政子の画と鑑定した。この鑑定は誤りでないだろうと文晁の所見で締めくくられる。ただし、版本の線は固く、抱一画と『本朝画纂』所載の図の因果関係は決定打に欠ける。『本朝画纂』が編纂する前段階として、文晁手書きの縮図が存在したはずであり、その縮図と思われる図を次節で確認したい。⑵ 「白衣観音図」(寿福寺所蔵)と『文晁紀行』(東京大学総合図書館所蔵)文晁は、寛政九年(1797)に鎌倉へ旅しており、その際の記録が数種の写本によって伝来している。このうち、最も原本に近いとされる東京大学総合図書館所蔵『文晁
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