鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 214 ―紀行』を取り上げる(注7)。なお、『本朝画纂』は文化六年(1809)ごろにはすでに完成していたとみられる(注8)。五月二十六日の項に、寿福寺の日課観音四図〔図3〕を見出される。観音図の右下には、それぞれ右から十日、十一日、日数を有さないもの、念九日と書かれた観音図が描かれる。ところで、鎌倉・寿福寺に伝わる白衣観音図は、右から一尊・二尊・一尊を描く三葉が貼られた一幅〔図4〕として伝わっている(注9)。一葉の右下にはそれぞれ「十日」「十一日」「念九日」の日付を有している。文晁の縮図写本と寿福寺に所蔵される三葉に描かれる観音四図の日付の並びは完全に一致し、それぞれの顔貌表現なども似通っており、十一日、と書かれた観音の胸部分に、紙の欠損が見られる点まで同じであることから、文晁が見た日課観音図は、寿福寺に伝存する「白衣観音図」だったと考えられる。この四体のうち、十日の日付を有する一図を『本朝画纂』に掲載したと考えられる。このほか、現存する日課観音の例としては、三点の存在が確認でき、一点は、個人所蔵本〔図5〕で、「九日」の日付を有するもの(注10)、もう一点は、同じく個人所蔵で、原三渓旧蔵本、念二日あるいは念三日と判読できる日付を有す作品〔図6〕(注11)、もう一点は、福岡市立美術館本〔図7〕で、松永耳庵に旧蔵されていたものである(注12)。⑶ 日課観音図における抱一画と文晁画の比較検討東京大学総合図書館本は、原本に近いとされるものの、図としては文晁の描いた一次写生とはやや異なっていると考えられる。そこで注目したいのが、「文晁巻」と名付けられた文晁の縮図一巻〔図8〕である。寛政丁巳つまり寛政九年(1797)の年紀を有し、鎌倉地方等の風景や土地の風物、寺社の什物を写し取ったものである。奥書によれば、文晁が都へ上った際写生したものを濱杏堂、おそらく濱田杏堂(1766−1815)に贈ったものである(注13)。前年にあたる寛政八年、文晁の関西行の際、文晁は、濱田杏堂に会っているといい(注14)、杏堂は、文晁が出版を行った『漂客奇賞』に跋を寄せており、両者には交流があった。この「文晁巻」五月二十六日の項にも日課観音図が描かれる。「五月二十六日雨到鎌倉寿福寺見之僧云 二位尼将軍平氏画為実朝々臣追福」の記述の後に、続いて「十日」と傍らにかかれた日課観音の図が描かれ、「七月六日文晁手摸」の書き込みがなされる。東京大学総合図書館本とは異なり、他の三図は描かれておらず、観音図は一図のみである。観音図を書いた日付と、二カ月の差があるが、文晁が現物を見て写し

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