2、抱一筆「水月観音図」と文晁筆「慈母観音図」冒頭で述べたように抱一の印章が捺される「水月観音図」は、「慈母観音図」と同じ図様を持つ作品であることが公開の際、言及され、注目されることとなった。同図様の作品が、抱一の弟子・池田孤邨が師の作品を縮写して出版した『抱一上人真蹟鏡』にも確認できる(注17)。また、国立国会図書館にも同図様の粉本が所蔵されるという(注18)。文晁筆「慈母観音図」は、その箱書から、京都・東福寺に所蔵された伝呉道玄筆の観音像を写したとされている(注19)。落款・印章は、岩に隠れるように金泥で施され、落款の書体からは、文晁四十歳前後(寛政末〜文化初)の作とされる(注20)。― 216 ―この十三日の幅を拝受したため、残る五幅に新たに表装を加えて庵主に謝したこととなる。裏書きがなされた宝永四年(1707)は、この日課観音図が釈迦像の頭部から元禄年間に発見された頃よりあまり時を経ていない。年紀の後に記される末尾の二文「今在一幅今大路/式部大輔家」の意味をはかりかねるが、この裏書と全く同じものが、『古画備考』にも所収されており、この末尾の一文に続きが記される。「今一幅在今大路式部大輔家、安永五年七月十七日、栄川院鑑定実朝公、九日トアリ」とある。つまり、今大路式部大輔の家に在る一幅は、「九日」と書かれたもので、安永五年(1776)、つまり、裏書きが書かれてから約七十年後に、狩野栄川院典信(1730−90)が、実朝公の筆と鑑定したということになる。安永五年には既に、寿福寺から流出していたと考えるべきであろう。以上の検討から確認できた事項をまとめると、『本朝画纂』に掲載される文晁の日課観音図は、文晁が寛政九年(1797)に鎌倉・寿福寺で見た「十日」の日付をもつ日課観音図を基に版が作成されたものであり、一方、抱一が文政七年(1824)に描いた一連の「日課観音図」は、現存する「九日」の日数を有し、おそらく、今大路式部大輔の家に伝来した日課観音図を写した可能性が高い。すなわち、日課観音図の場合、文晁と抱一は、互いに古画の情報を融通し、共有しあっていた可能性はあるが、文晁と抱一がみた日課観音図は、別のもので、見た時期もおそらく異なっていたと言えるだろう。樋口氏は、抱一画と文晁画を比較検討した結果、「抱一は文晁画を臨摸したのではないか」と推測されている(注21)。一方、古田氏は、抱一画・文晁画をともに調査した結果、「どちらかがどちらかを模写したというよりも、同じ原本からそれぞれが独自の感性で描いたものと解される」と述べ、抱一と文晁がそれぞれ原本に向き合っ
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