3、抱一と古画、寺院とのつながり抱一は、特定の師を持たない。師を持たずに画業を為すためには、自然、古画を真― 217 ―た可能性を指摘している(注22)。しかし、抱一は寛政九年(1797)の京都行き以降、京都へ向かった記録はなく、京都・東福寺にその当時所蔵されていた仏画を写したとなると、考えられる可能性は、文晁が写した摸写を抱一が写したか、もしくは、寛政九年に抱一が京都へ向かった際に、摸写を行った。以上2つの可能性が考えられる。文晁筆「慈母観音図」には、いくつかの書簡および極書が付属資料として伝わっている。その中の一つを紹介したい。書簡は、東福寺の二百九十一世・敬冲(1824−1905)によるもので、「観音画一幅 文晁筆 南無大慈大悲観世音 現身水月道場妙相 合掌焼香曰 筆の格健ニメ其の精神画す古今珍品也 唐宋ノ名家モ及ビ難キ誠トニ文晁生涯ノ丹青世ニ稀レナリ我東福寺に仏像是レ有ル中ニ此ニ如キ殆ド見ズ容貌美麗自然ニ威儀ノ備ル珍ズベシ、宝トスベシ 現東福 斗室 老納 癸卯歳 初冬 敬冲(以下略)」とあり、文晁の画をたたえているが、下線部において東福寺にこういった仏画がないと述べている。癸亥はおそらく明治36年(1903)のことと推測されるが、この頃にはすでに、箱書きに記されているような呉道玄の図は、東福寺にはなかった可能性が高い。つまり、第3の可能性、抱一文晁の在世期に、すでに東福寺から流出していた伝呉道玄筆の「観音図」を、両者がともに実見し、作品として仕上げた可能性も浮上する。本稿で確認できた日課観音図の例は、この新出の観音図においても抱一と文晁はそれぞれに原本と向き合ったという可能性を高めるものではないだろうか。似し、学び、自身の絵としていく他に道はなかったはずである。抱一の自筆句集『軽挙観(館)句藻』第四冊(文化七年[1810])には、「赤水庵分□晋子の肖像を余に望むされば浪華の仙鶴か古図によりて是を画くに是仏師光慶をして刻せ当流はいかいの道場を不朽にせんとす其工已なる于時文化己巳の春三月二十九日也」とあり、晋子、つまり宝井其角の肖像を依頼され、その際、肖像の古画を参考にしていることがわかる。抱一はすでに其角の肖像画を手に入れていたか、あるいは依頼のあった後に探し求めていたと考えられる。また、『住吉家鑑定控』は抱一が光琳の絵を持ち込み、鑑定を依頼している証拠としてしばしば取り上げられてきた史料であるが、光琳画以外にも、文化三年(1806)の阿弥陀尊之画一幅をはじめ、多くの仏画を持ち込んで鑑定を依頼している記録がある(注23)。抱一が目にしたすべての仏画を鑑定に出していたとは考え難く、おそらく抱一が実際に目にした仏画はかなり
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