鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
229/620

注⑴ 玉蟲敏子「『観音像』の章」『都市のなかの絵』ブリュッケ、2004年。⑵ 主な作品解説は以下の通り。①村重寧編『琳派』第四巻 紫紅社、1991年。…「青面金剛像」(細見美術館所蔵)、「観世音像」(妙顕寺所蔵)、「妙音天像」②細見美術館監修『琳派を愉しむ─細見コレクションの名品を通して』淡交社、2001年。…「青面金剛像」③樋口一貴「画遊の友 ― 218 ―の量があったと推測される。光琳百年忌ばかりが取り上げられるが、百年忌を行ったのは光琳だけでなく、宝井其角の百回忌、遊女玉菊の百回忌なども行っている。なお、日課観音図が描かれた文政七年は、ちょうど北条政子の六百回忌にあたり、証拠となる資料は見つけられていないが、何らかの記念事業の一つということも考えられる。抱一が学んでいたのは、決して光琳だけではなく、古画を探し求め、学習していた。そのひとつとして光琳学習があったとも位置付けられるのではないだろうか。抱一の現存作品の落款に注目すると、大部分は寛政九年出家後に分類され(注24)、本格的に画業をはじめたのは抱一が出家をしてからではなかったかと推測される。出家の後は、自然、寺とのつながりが深くなっていったと考えられ、抱一の句集には、寛永寺、弘福寺、増上寺、谷中感応寺、木母寺、泉岳寺、円覚寺など、多くの寺院名を見出すことができる。それらの多くは、江戸名所図会に掲載されているような、庶民の参拝の対象となった寺が多く、確かに抱一の庵居があった現在の台東区根岸あたりから、気軽に足をのばせる範囲内のお寺が多い。しかし、中には、『軽挙観(館)句藻』第六冊(文政二年[1819])の「永称寺に夜喰招かれて 蓮の飯 是そ精舎の菩薩かな」という句からわかるように、明らかにその寺の主と交流があったこともわかる。そのような中で、絵師として名をあげた抱一が依頼され、仏画を描くようになり、自身の得意とする草花絵と融合した作品が生まれて行ったのではないだろうか。おわりに本稿では、「日課観音図」に着目し、抱一と文晁が見た原本は、別のものだということを明らかにした。従来より指摘されてきた抱一と文晁の関係において、抱一が文晁を通して古画を学んだ、という図式で認識されやすかったが、古画の学習において、抱一は文晁に対して従の関係ではなく、抱一自身も独自に古画を探し求め、学習をすすめて行ったと考えられる。「水月観音図」と「慈母観音図」の細部を比較し、抱一と文晁との描写の相違を考察したかったが、諸事情で「水月観音図」の熟覧がかなわず、両図の詳細な比較検討は、今後の課題としたい。

元のページ  ../index.html#229

このブックを見る