⒀ 奥書は次の通り。「谷文晁遊於上都帰後写塗中所/見贈濱杏堂後杏堂又贈北邨翁/翁装潢伝家⒁ 森銑三「谷文晁伝の研究」『森銑三著作集』第3巻、1971年、189頁。⒂ 相見香雨氏によれば、享和二年(1802)、抱一と文晁、亀田鵬斎が共に常陸国若芝の金龍寺に遊び、その際に江月洞文筆蘇東坡像を模写し、抱一と鵬斎へそれぞれ一幅ずつ贈ったという。(相見香雨「文晁摸写の東坡像に就て」『相見香雨集二』、1986年。)また、文晁が、奈良・弘仁寺の什物で、写すと死に至るという伝説のある秘蔵の絵画を、後世に伝え残すためと寺側を説得し、摸写を二図作って一部を寄進し一部を携えて帰ったという言説もある。(森銑三、前掲、190頁。)⒅ 古田亮「《悲母観音》考」『狩野芳崖 悲母観音への軌跡─東京藝術大学所蔵品を中心に─』芸大⒇ 河野、前掲注⑷論文、2001年、16頁。■ 樋口、前掲注⑵論文、151頁。■ 古田、前掲注⒅論文、99頁。■ 『住吉家鑑定控』『美術研究』38−40、1935年。■ 抱一の現存作品の大半は、出家後の名である「暉真」、文化六年(1809)に大塚村に転居してから用いるようになった「鶯村」、文化十四年(1817)頃から使用されるようになった自居の庵号「雨華」の落款が使用される。― 220 ―⒃ 現在の表装には裏書きは確認できず、表装が替えられたとみられる。⒄ このほか、真偽は不明であるが、売立目録にも2点が確認できた。「抱一 著色呉道子写観音 箱表孤村 箱裏守一 百図之内」(『某伯爵家大正四年二月』)および、「抱一 著色呉道子写観世音 其一表箱 守一裏箱」(『某家大正七年十一月』)。⒆ 箱書「此図旧箱の銘書に東福寺什物之内呉道玄図写とありて当時桑名少将楽翁公谷文晁を京都年、134頁。云/天保癸己榴月巽処迪記 」「米迪」(白文方印)「赤率」(朱文方印)美術館ミュージアムショップ、2008年、99、105頁。に遣わし命じて所写の画なり 旧箱破れ新箱に換る故此由を記し置く」
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