鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 226 ―進められており、そのいずれにも近い土佐派も動員されていただろうと想像される。従って、多忙を理由に断りを入れた「絵所」が土佐派を指す可能性はある(注5)。この盃台はその後、南都に注文され(『看聞日記』永享9年9月24日)、彩色が粟田口隆光に命じられている(同、10月2日)。盃台の意匠は二艘の龍頭鷁首船が池に浮ぶ様を模したものであった。この行幸の様子は、『室町殿行幸記』や『永享九年十月二十一日行幸記』によって知ることができる。多数の盃台があらゆる場で用いられているため、そのなかから当該の盃台を特定するのは困難だが、還幸前日に三船御会が催されており、龍頭鷁首船の作り物は行幸というイベントに適した主題だったと思われる。史料⑦は、足利義政の申楽観覧に供する盃台について記す。意匠は、岩から清水が湧く様を詠んだ、堀河院御時御百首の藤原公実の和歌に基づく。清涼感あふれる情景は、盃台が作られた季節に相応しく、その絵様を提供した能阿弥による《花鳥図屏風》(出光美術館蔵)〔図1〕などを連想させる。しかし、盃台の制作を絵様筆者の能阿弥ではなく、それをもとに実際には土佐広周が担うという一見複雑な工程が何故とられたのか。後で改めて述べることにするが、盃台などの作り物を制作する知識や経験において、土佐派が優位と見なされたためではなかろうか。とはいえ、能阿弥や絵様の役割も決して小さくない。絵様は、注文主の好みを制作者に伝える媒体と機能しており、制作にあたる広周は当然ながらその制約を多かれ少なかれ受けることになるからである。別の角度から見れば、土佐派の絵師が、阿弥派の絵様から直に学び、作り物へと翻案するという、流派をこえた活動の現場が、この事例を通して垣間見られるのである。史料⑨、⑩は、足利義尚が作らせた盃台の記録である。盃台の意匠について、土佐光信から相談を受けた三条西実隆が意見を述べている。実隆は、菅原道真の和歌「足引きのこなたかなたに道はあれど都へいざという人ぞなき」の歌意を描いた盃台について、山並みの意匠のなかに散らされた「いざと」という三文字によって和歌が「露顕」することを問題視している。二つ目の盃台は、「狩くらし交野の真柴折り敷きて淀の川瀬に月を見るかな」(藤原公衡)を主題とする。前者の和歌に対しては、筑紫に下った道真と近江に出陣中の義尚を重ねて見ようとする意識が働いていることが指摘されている(注6)。後者の、鷹狩りに日暮れまで夢中になり、野で川面の月を眺めるという光景も、やはり陣中の義尚を思わせる。なお、和歌に主題を求めることは史料⑦と同様であり、しばしば行われていたことを窺わせる。

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