― 227 ―㈡ 染織史料②は、賀安丸(山科嗣教)の直垂に、土佐行広が文様を描いたという記述である。直垂が調った翌日に賀安丸の餞送が行われ、その二日後に彼は日野重光の猶子となって足利義嗣に祗候する(『教言卿記』応永14年8月19日、21日条)。こうした状況から、直垂は賀安丸の門出にあわせて仕立てられたと推測できる。松竹鶴の意匠は、土佐光信筆《桃井直詮像》(東京国立博物館蔵)〔図2〕の、亀と笹松喰鶴文の直垂から類推できよう。制作においては、行広が下絵を描いたのか、布地に直に文様を描くところまで行ったのか、史料からは判断できないが、金銀の箔や泥で直垂に文様を描く例もあり、いずれの可能性も残る(注7)。さて、土佐派による工芸制作に関する史料を駆け足で見てきた。盃台や直垂など、内容は多彩であるが、いずれも日用の品ではなく、特別な場面で用いるための注文であるという共通点があった。なお、特別な場で用いる品という点では大嘗祭の標山(史料③、⑧)がある。それと盃台の関係について補足しておく。標山とは、故事や物語、花鳥、神仙などをあらわす細工で飾り付けた、大嘗会で用いる大型の作り物である。土佐派は称光天皇と後土御門天皇の大嘗会で制作し、特に後者では六角絵所と春日絵所が受注を巡って争ったことでも知られる。盃台は、この標山から派生したものとされている(注8)。標山制作では、絵師が下絵を描き、それをもとに標師や細工師が作り上げる(注9)。盃台はそれほど大がかりではないが、絵師とともに番匠が制作に参加しているように(史料⑦)、技術や工程に標山と共通するところが多かったと推測される。つまり、土佐派が度々盃台の注文を受けていたり、史料⑦で能阿弥が下絵を提供するにとどまり、完成までの実制作は広周に委ねられたりした背景には、標山制作を通して培われた土佐派の作り物制作に対する評価があると考えられる。偶然であろうが、標山が十五世紀半ば以降、経済的理由で制作されなくなるのと軌を一にして、土佐派による盃台制作も文献からは姿を消してゆくことになる。二、工芸作品に見られる土佐派の図像次に視点を切り替え、作品を具体的に示しながら、土佐派の図像が工芸にいかにして取り込まれたのかについて考察する。㈠ 《芦屋釜下絵図巻》および《芦屋雪笹釜》について土佐派が器物の彩色などをしていたことを伝える史料は散見されるのに対し、実際の作例が現存しないことは冒頭で述べた。ただし、例外的に、伝土佐光信筆《芦屋釜
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