― 228 ―(徳川美術館蔵)をあげ、その意匠について見ていく。下絵図巻》と、それとともに伝来した《芦屋雪笹釜》(ともに福岡市美術館(松永コレクション)蔵)〔図3、4〕が、土佐派による工芸制作を裏付ける作品としてしばしば紹介される。前者の図巻には、十二の茶湯釜の輪郭と図案が描かれており、そのうち四季竹図の絵様をあしらったものが《芦屋雪笹釜》と酷似する。それ故、光信が下絵を描き、それに基づいて《芦屋雪笹釜》が鋳造されたと考えられ、さらに光信がこのような茶湯釜のデザインまで手広く関わった可能性が指摘されている(注10)。これに対して、重要な指摘をされているのが原田一敏氏である。原田氏は、芦屋釜が衰退した後、それを模した京釜が制作されたことに言及し、下絵はそのような写しを作るために芦屋釜を描き写したものと推測されている(注11)。この説は、《芦屋釜下絵図巻》の制作目的や時期、さらには筆者についても再考を迫る。言い換えれば、制作目的については、芦屋釜のための下絵か京釜のための下絵かが焦点になる。また、本図巻が当初から茶湯釜の図案下絵とするべく描かれたものなのか、あるいは既にあった茶湯釜を記録するためのスケッチだったのかということも、疑問として残る。筆者については、本図巻の模本が土佐派周辺に伝来していることから、図巻の成立に同派が深く関わったことは確かであろう。本図巻の四季竹図釜が、伝光信筆《四季竹図屏風》(メトロポリタン美術館蔵)と似ていることも、伝承を支持する根拠の一つとされてきた。細部に目を転じれば、図巻には松楓図釜の松〔図5〕のような描写が見出せる。松は墨線で簡略に描かれたものであるだけに、絵師生来の様式が表れていよう。その雲形の松葉の形態や縦横の比率が、土佐派の絵巻に描かれた松〔図6〕に似通うことに注目したい。ただし、下枝の描写などは異なり、同筆とは言いがたく、著彩と墨線の違いを勘案せねばならないが、両者の形態感覚の近さは認められるのではないか。他の細部描写の検証も必要だが、土佐派に帰されてきた伝承は無視しがたいのである。㈡ 《初音蒔絵調度》について次に、土佐派の作品に見られる図様が工芸に利用された例として《初音蒔絵調度》《初音蒔絵調度》は、寛永16年(1639)に徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家の光友に嫁ぐ際に制作された婚礼調度である。精緻を極めた蒔絵に覆われたこの調度は、幸阿弥家十代・長重の代表作であるとともに、近世の蒔絵漆器の到達点を示す名品として知られる。意匠は『源氏物語』を典拠とし(注12)、東南の御殿、西北の御殿、その両者をつなぐ前栽の景という三つの場面からなる。なかでも前栽の景に描かれ
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