― 230 ―このように《初音蒔絵調度》の図様と土佐派の源氏絵は近接しているが、それと当時の貴顕の間で源氏絵が広く受容されていたこととは無関係ではない。周知の通り、室町・江戸時代を通して源氏絵は繰り返し制作され、その図像は土佐派、狩野派や町絵師の流派をこえて共有された。徳川家では家康らが『源氏物語』に強い関心を示したことが知られ(注17)、狩野探幽筆《源氏物語図屏風》(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)をはじめとする数々の源氏絵が徳川家周辺で描かれている。よって、《初音蒔絵調度》が他の源氏絵を参照し、その図像を意匠に織り込むこと自体はあり得ないことではない。さらに、幸阿弥家と土佐派のつながりも見逃せない。『幸阿弥家伝書』には初代道長について次のように記される(注18)。足利義政に仕えた道長は、能阿弥や相阿弥の下絵を用いて研出蒔絵を作り、土佐光信の下絵によって高蒔絵を制作した。二代道清も能阿弥や光信下絵を利用しつつ、自らも図案を創作したと伝えられる。『幸阿弥家伝書』は江戸時代に編纂された史料だが、幸阿弥家が土佐派などから学んだ図様を蓄積し、蒔絵に転用していたことが察せられる。その一方で、《初音蒔絵調度》には《年中行事絵巻》や《駒競行幸絵巻》などの寝殿を彷彿とさせる東南の御殿の景があり、幸阿弥家のイメージソースの幅広さを窺わせる。奇岩が連なる庭の広やかな景も、本調度ならではの特徴である。《初音蒔絵調度》は、いずれの器物も破綻のない構図で見事にまとめられている。そのため、工芸の図案制作に熟練した人物が下絵を担当したと推測されるが、その考証は今後の課題としたい。おわりに本報告では、これまで論じられる機会の少なかった土佐派と工芸制作との関わりについて、文献史料と作品の両面から考察することを試みた。しかし、ここで取りあげた事例は、絵師が直接筆をとったものや下絵が媒介になって意匠が器物に写された作品など、位相の異なるものが混在しており、それらを並列的に述べるにとどまった。また、いずれも中間報告というべき段階にある。今後は、これまで繰り返し示唆されてきた工芸の意匠と絵画の関連を、具体的な作品に沿って検証していく必要があるだろう。とはいえ、室町時代の工芸作品は、意匠の考案者を特定する手がかりを容易には示さない。それは、江戸時代に制作された狩野探幽落款をもつ《牡丹文蒔絵太鼓》(福岡市美術館蔵)(注19)や《芦に鷺図撫肩釜》(大西清右衛門美術館蔵)と対照的である。しかし、現存作品やその制作背景から絵師に繋がる手がかりを模索し、ひいては制作者を特定しがたい中世工芸に、作者という情報を付加することを遠望し、ひ
元のページ ../index.html#241