2.銘文大雲寺碑像には、碑陰下半部に「大雲寺彌勒重閣碑」と題する銘文、碑陽上部、「摩耶哀慟」から「火葬」までを表す四区画の中心に「大周大雲寺奉為 聖神皇帝敬造涅槃変碑像一區」、また、碑陽最下部に供養者名、また側面上部、蓮華座上の菩■の脇には「大勢至菩■主□」の文字が確認され、碑陰中程の三如来が表される区画の左右にも、左二行、右一行が刻まれている(注4)。以下、それぞれみていく。― 238 ―「國家は天地の明命を受け、神道の財成を契る、歴數を徴し而して巖廊に坐す、元亨を用い而して寓縣に登る。淳和化を作し、軒頊の年を忘れず。揖讓して尊を為し、自ら唐虞の代を得る。聖神皇帝は以て鼇を斷じ極を立て、象を執りて開元し、黄神に應じて而□慶、□牛■而籙を受く。深く因果を明め、方に釋氏之門を崇う。弘く艱難を濟い、自ら輪王の稱を得。東西南北、遠く玄風を扇ぎ、宇宙山川、髙く佛日を揚ぐ。如来は上聖と雖も、自ら忉利の天に安ず。而るに彌勒下生し、或は閘浮之境を濟う。(注5)」碑陰の「大雲寺弥勒重閣碑」はかなりの長文になるため、本稿でその全文を示すことはできず、二三の点に絞って確認したい。銘文の全体の構成を述べれば、まず、兜率天中の弥勒に触れ、次いで「弥勒重閣」が以前の白禅寺であり、白禅寺が荒廃したことが語られる。そして聖神皇帝を讃える文言が続き、その後、大平寺上座義通が「此尊容を建」て、仏弟子王行師等が碑中の涅槃変に関わったこと、また文林朗王元敬などの名前が挙げられた後に銘が書かれ、最後に同造碑人として44名が名前を連ねている。先ず、制作年代に関する議論を振り返っておく。制作年代を推定する要素として、「天授二年二月二十四日准 制置為大雲寺。至三年正月十八日准 制廻換額為仁寿寺」という記載がある。また、碑中では則天武后は「聖神皇帝」とされており、則天武后が聖神皇帝を号したのは天授3年(692)9月まで、大雲寺が額を仁寿寺に変えるのが天授3年正月とすることから、この間に碑像の制作がなされたと推定することが出来る〔表1〕。次に、碑像中の則天武后の位置付けを改めてみておきたい。銘文中、則天武后に触れた個所を抜き出しておく。「聖神皇帝」である則天武后の即位を讃え、則天武后が「輪王」の称を得て広く教化を行うという文言に続いて、弥勒が下生して「閻浮之境」を救うという文言がみら
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