4.五姓田義松の存在五姓田義松旧蔵作品群にワーグマンの作例が含まれていることは、既に報告してきた(注7)。本稿ではワーグマンの様式論を構築するためにそこからいくつかの作品と情報をとりあげ、さらに義松とワーグマンの関係性について論じる。せることで、油彩画もおおよその制作年代の把握とその展開を推測できるだろう。ただし、油彩の肖像画については、別途検証する必要があることも付記しておきたい。《初代五姓田芳柳像》(東京藝術大学)などに認められる的確な相貌の描写などは写真の利用が想定される。描き込みの的確さや、その対象への集中力は油彩の風俗画と比較すると異質なように思え、今後の研究課題である。さて、以上、様式変遷を具体化したが、続いてその変化を促した要因について指摘しよう。先に見た《スケッチブック》が示唆的だが、ワーグマンが試みている流麗な描線、水っぽい大気の表現を促した造形性こそ、その後の変化の基礎と考えられる。それらはほとんど来日以前の作例には見てとれない要素でもあるからだ。そしてその造形性は、西洋の水彩画とは異なる、息の長い線、肥痩を調整できる線、また水気の多い付彩を学んだ結果と推定される。つまり、その当時の日本で通常に用いられていた画材、技術に触発されたと考えられるのである。ワーグマンが日本の技術を学ぶ機会は随所に見てとれる。例えば、書画会への参加。ILN1866年1月27日号に挿絵入りで詳細な報告を寄せているが、つぶさに日本人の技術とその実践を観察していることがわかる。また木版で刷られたThe Japan Punchにもその痕跡がうかがえる。創刊された1862年段階ではあまり多く見られないが、1860年代後半ともなると、毛筆による伸びやかな線の動きが認められる。その線は彫り師によるものかもしれないが、高橋由一《スケッチブック》(東京藝術大学)には毛筆で描かれたワーグマンによる図〔図11〕が含まれている。それは『ジャパン・パンチ』1874年10月号と同じ図様であり、やはりワーグマン自身が毛筆を用いていたとするのが妥当だろう。さらに、鉛筆ではあるが同様の描線をもつ素描〔図12〕が1870年代半ばの制作と推定されることからも、その技術の定着が認められる。以上の事象は、単にワーグマンが日本に洋画を伝えただけではない、自身も日本での様々な要素を吸収し造形を営んだ、いわば双方向的な存在として理解することを促している。まず様式論だが、二点の作品を挙げ、具体的に来日してからの変化の様相を確認しよう。《祭礼風景》〔図13、神奈川県立歴史博物館〕は、線質の細い描線が認められ、一見して来日以前の様式と近似する。描かれた風俗から考えても明治改元以前と推測― 14 ―
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