― 239 ―れ、ここには則天武后と弥勒との関連が明確に述べられる。また、長壽2年(693)9月に尊号を「金輪聖神皇帝」とし、證聖元年(695)に「慈氏越古金輪聖神皇帝」とする以前に、既に則天武后が転輪聖王であると同時に下生した弥勒であるという認識が流布していたことが知られる。こうした、碑像中の則天武后、弥勒の重要性は、次に確認する供養者名と傍記においてもみることが出来る。次に、碑陽下部には、二十九名の寄進者が記されている〔表2〕。このうち八名が、「大雲寺彌勒重閣碑」銘に「同造碑人」として名の挙げられており、これら八名は造像の際に特に中心となったと思われる。二十九名は「發心主」「大弥勒像主」「純陀主」「大重閣主」「大碑主」「願成主」「大施主」「涅槃変主」に分けられているが、注目されるのは、「大彌勒像主」「大重閣主」である。前者については次の項目で述べるが、後者は、「大雲寺彌勒重閣」に関わる寄進者名とみることが出来るだろう。また、碑陰中央部の三尊像に傍記が存在することは、既に水野・日根野両氏が、三尊像に言及する際に指摘しており、「傍記よりみると、中央は彌勒佛、左は釋■佛であるらしいが、右は阿彌陀であろうか」とされている。これについては、実見の際、傍記を三仏四菩■の表された区画の両外、左側に二行、右側に一行確認することができた(左から①、②、③とする)。摩耗のため、①は現状判読出来ず、②は「大弥勒像主」、③は「□□□像主楊君武」と読める。また、側面の「大勢至菩■主□」は、蓮華座上の菩■の一軀にあたるものと思われる。摩耗によって読解の困難な現状では判断が困難であるものの、水野・日根野氏の報告から判断すれば、1945年の段階では、①に「釋■像主」の文字が判読されたのかもしれない。報告は、恐らく①を結跏趺坐の如来、②を倚坐の如来、③を説法印の如来に充てて解釈したものであろう。ここで、先に示した〔表1〕を参照すれば、碑陽下部の供養者名の中に「大弥勒像主上撻軍楊□(君カ)武」の名がみえる。③の「□□□像主楊君武」と同一人物であれば、③もまた「弥勒大像主」ということになり、②③はともに「弥勒」に関わる傍記ということになる。従って、三尊のそれぞれに傍記を充てることは困難で、これをもって三尊の尊格比定を行うことは出来ない。しかしながら、少なくとも、三尊の中心に置かれた倚坐仏は弥勒仏であって、三尊中最も重視されるものであったことはここから読み取られるように思われる。ところで、碑陰銘文中の、「大平寺上座義通」が中心となって建てた「此尊容」は何を指すのだろうか。義通は碑陽下部の供養者名の筆頭にも名を連ねており〔表1〕、碑像そのものへの関与も想定される。しかし、銘文中に直接涅槃変に関わる人物として「王行師等」が挙げられることからも、或いは荒廃した白禅寺を建直し「弥勒重
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