3.同時期の関連作例以下、七世紀後半期から八世紀前半ごろの関連作例を確認しておく。― 240 ―《大純陀主儀同董如相等造涅槃碑像》閣」とした人物の中心に義通がいたと考えられるように思われ、銘文中の「此尊容」は「弥勒重閣」或いは弥勒重閣中に安置された弥勒如来像を示すとも考えられる。供養者中の「大重閣主」の存在からも分かるように、大雲寺碑像は、単に「弥勒重閣」に安置されたというだけでなく、「弥勒重閣」の造営と一連の事業として制作されたものといえる。則天武后は、嗣聖七年(690)に唐の皇位を簒奪して武周革命を断行し、国名を周と改め、その年の九月には詔を下して、武州革命の理論的根拠となった『大雲経』を天下に頒布し、十月には諸州に大雲寺をおいて自らの政権を喧伝した。大雲寺涅槃変碑像が、『大雲経』をおいて則天武后の政権を喧伝する意図をもって建てられた大雲寺に安置されていること、則天武后が弥勒の下生であることを武周革命の理論的な根拠の一つとしたことを考えれば、銘文に「弥勒重閣」は、大雲寺中でも重要な堂宇であったと思われる。この碑像は、水野・日比野氏により報告されているが、その後の存在は確認されていないようである。また報告書には図版も収録されていないため、その記述内容以外に情報は得られない。上半を欠損し、現状高74cm、幅69cm、厚さ20.5cmであったといい、則天武后期の作と推定している。最下段に供養者名が並び、第一層に説法の釈■像、第二層には涅槃像、第三層以上は欠損するものの「左右二分し、右半に輿丁の脚らしいものがみえ、左半に棺と摩耶夫人らしいもの」がみえ、また側面の獅子、甲冑力士蓮華化生の意匠まで同様という。報告書の指摘通り、この様な構成は大雲寺碑像と同一であるといえ、当時「金棺出現」を含む涅槃変の同構成の図像が広く流布したことを示すように思われる(注6)。試みに大雲寺碑像の第三層半ばまでの高さを計測したところ、約155cm(亀趺含めず)となった。幅、厚さも、大雲寺碑像の方が大規模である。また報告書によれば、最下の題名には、「清信佛弟子董薬師」「供養主・・」「大供養主・・」「都化主・・」「願成主・・」「大願成主・・」「慈心主・・」「大發心主・・」「純陀主・・」「大純陀主・・」の名が並んでいた。報告書には碑陰に関する情報は記されないため、碑陰に弥勒を含む三仏を伴うものであったかどうかは分からないが、大雲寺碑像の供養者と比べた時、ここに「大弥勒像主」「大重閣主」がみえないことは、逆に大雲寺碑像における両者の意味合いを強めるように思われる。
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