鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 241 ―《敦煌石窟第332窟》332窟主室は、奥壁に涅槃仏、中心柱東側と南北壁東側にそれぞれ塑像の仏三尊像をおき、四壁および中心柱にそれぞれ壁画を描く複雑な構成をとる。これらの塑像群は後代の重修になるが、『中国石窟彫塑全集』の記載内容を参照すれば、唐代の原状をうかがわせるところがあるといい、また三尊像は併せて龍華樹下での弥勒三会を表すと解釈されている。332窟の窟内の一つの構成要素として、涅槃から下生した弥勒へという軸があることは改めて注目したい。《浜松市美術館所蔵仏碑像》〔図3〕また、既に安田治樹氏が図像内容に詳細な分析を加えている敦煌莫高窟第332窟南壁の涅槃経変もまた、「臨終説法」「涅槃」「須跋陀羅入火界定」「大■葉接足作礼」「納棺」「金棺出現」「葬送」「荼毘」「分舎利抗争」「分舎利」「起塔供養」の九場面が大画面に連続的に表され、再生説法を含んでいる(注7)。敦煌石窟における涅槃図は、北周期、莫高窟428窟を最古例とし、隋代には、280窟、295窟、420窟など、制作数が増加するが、唐代に入った618年から698年まで、涅槃経変が見られず(注8)、則天期、聖暦元年(698)の第332窟涅槃経変が唐代最初になる。賀世哲氏は、天台、三論といった諸宗の勢力が増してきたことが、初唐期涅槃変の残存件数が減少する一因となったと論じている。唐代に入り一旦涅槃変を表現する傾向が低迷した後、所謂則天期にいたって再び制作が見られることは重視すべきと思われる。現在浜松市美術館所蔵の仏碑像(王善登碑)は(注9)、高178.0cm、幅59.0cmあり、碑陽には最下部に銘、その上部二段に十六の供養者が並び、中央部に如来坐像、二菩■、二蓮華化生、二天部を表し、最上部は螭首を表して間に倚坐の如来、二比丘をおく。また、碑陰は最下部に線刻で四頭の獅子を表し、浅浮彫で涅槃に関わる諸景を表わす。下から「涅槃」「金棺出現」「火葬」である。「金棺出現」では、双樹の下、棺の上に坐した釈■が、侍者二人に支えられた摩耶夫人に説法する。また「火葬」の場面では六人の火手が棺の周りに描かれ、傍らには飛雲に乗って天に帰る摩耶夫人の姿も見える。分舎利、舎利塔起塔は表現するものではなく、ここでの涅槃変は、むしろ摩耶夫人への説法を中心に構成している。碑陽最下部の銘文は「阿弥陀石像文并序」と題され、銘文から開元二十二年(734)の制作になることが知られる。また「敬造阿弥陀石像一鋪」と記され、碑陽中央部の結跏趺坐し右手を膝上に伏せる如来坐像が阿弥陀如来であることが知られる。李静傑氏が指摘しているように碑陽・碑陰ともに上部には如来倚坐像が彫られており、これを弥勒如来像とみれば、ここでもやはり弥勒如来と涅槃とが結び付けられていることになる。

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