鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 筆者は先に奈良県長谷寺の所謂銅板法華説相図について検討を加えるなかで、則天期を中心とする時期の舎利信仰の在り方が、日本における同時代の仏教造像史に強く影響している可能性に触れた(田中健一「長谷寺銅板法華説相図の図様および銘文に関する考察」『美術史』第168冊、美術史学会、2010年。①水野清一、日比野丈夫『山西古蹟志』京都大学人文科学研究所報告、1956年② ALEXANDER C. SOPER, “A T'ANG PARINIRVANA STELE,” Artibus Asiae, vol. 22, 1959, pp. 159−169― 242 ―⑵ この碑像に関する主要な参考文献は以下。以上確認した七世紀末から八世紀前半期の三件の作例は、いずれもが摩耶夫人への説法を含み、また少なくとも二件が涅槃と弥勒下生とを結び付けて表している。こうした内容は、敦煌での制作の傾向を考慮すれば、中国則天期に顕在化した傾向とみることが出来るように思われる。おわりに大雲寺碑像は、付された銘文から判断する限り、「弥勒重閣」の碑像であり、更に、釈■の入滅から舎利塔起塔までを主な内容とする「涅槃変碑像」は倚坐如来像を含む三仏の表現を含むものである。これら三仏の尊格比定は現状では困難ではあるが、碑陽に見える供養者名および傍記から判断すれば、倚坐弥勒仏は碑像中でも特別の意味付けがなされていたように思われる。これらを併せ、碑像の涅槃という主題設定は、「弥勒重閣」との関わりから理解がなされるべきであろうと考えられる。則天武后と下生した弥勒如来との関係を語る銘文を伴って、「涅槃変」という主題を選択していることは、およそ700年を前後する則天期にあって、弥勒の下生を位置付ける主題としての涅槃という意識が行われていたことを示している。釈■の死を表す涅槃と、釈■の後の当来仏である弥勒とが組み合されることそれ自体は、キジル石窟などにその例をみることが出来る(注10)。しかし、現存する同時代の作例を考慮しても、弥勒下生に重点を置く形で両者が結び付く傾向は、この時期に顕在化する傾向とみることが出来るように思われる。大雲寺碑像が則天武后期の弥勒信仰の在り方を反映していることは、既に先行研究においても触れられてきたことではあるが(注11)、本研究では銘文傍記の確認作業、また同時代の作例の再確認の作業を通じて、上の認識を改めて取り上げた。涅槃と弥勒如来とを同時に配置する作例として、日本では和銅三年(711)の法隆寺五重塔塔本塑像群があり、中国則天期の動向との関連を、本研究の成果をもとに改めて考察したい。

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