されることから、1860年代半ば以前の制作と推定される。一方、《洗濯女》〔図14、神奈川県立歴史博物館〕はよりのびやかで太い描線でおおぶりにその姿態がとらえられ、より来日後の様式に近い。しかしながら、両者の支持体となっている紙は目視の限りだが共通した素材と考えられ、おおよそ同年代の作例と考えられる。このように五姓田義松旧蔵作品群には様式が変化する様相の具体例が含まれるが、それは理由のないことではない。義松がワーグマンに入門したのが、1865年のこと。学習が終了し独立するのが、およそその八年後と考えられることから、その時期に集中して師から作品を譲り受けたにちがいない。しかも臨模だとすれば、より早い時期に作例を欲したはずで、だとすれば同作品群に認められるワーグマン作例はおよそ1860年代の制作と推定される。そう考え、様式的に照らし合わせても辻褄が合う。従来、両者の作品が混在している事実が見落とされていた最大の理由は、両者の技術、様式が接近しているからである。この近似という事象だが、学習、臨模という行為の結果だけでは説明がしきれまい。あれほど洋画を欲した由一にはワーグマン様式の作例が少ない事実を考えれば、義松がその様式を丸呑みしたかのような事象にはより積極的な意味、作為が存在すると思われるのだ。具体例を示そう。《中国の少女たち》〔図15、神奈川県立歴史博物館〕は、画面右下にあるサインなどからワーグマンの来日以前の作例と考えられている。ただし、その鉛筆の筆圧、密度のある斜線は、来日以前の様式と比較すると異質だ。その特徴はむしろ義松に近い。また《室内》〔図16、横浜美術館〕は、人物像にまるみがある造形性はワーグマンらしさを示すが、木目の描き込み、背景描写の丁寧さなどは彼の感覚とはまた異質だ。どちらも義松の技術力が想起される。合作、あるいは師はサインをしただけなど、あらゆる可能性が浮上する。現在、ワーグマンとされている作例の中で、確かにワーグマンの技術的な片鱗はあるが、彼の作と同定することが躊躇されるものがある。それらはたいてい義松なのかワーグマンなのか分別がつきがたいもので、その実例が上記の事例である。それらの存在から、報告者はワーグマン作とされているものの中に義松が描いたものが含まれていると考えている。それは義松自身がワーグマンの制作すなわち営業に協力していたことを意味する。ワーグマンは絵を売って生計をたてていたわけで、入門した弟子をその事業に協力させることに何ら不思議はない。五姓田工房でも助筆や合作は当然のことであったからだ。独立後ならば厭われる行為であったかも知れないが、ワーグマンのもとで学んでいる時期であればその行為はむしろ自然だったろう。以上の可能性も視野に含めることで、これまで把握しがたかったワーグマン作品の作家同定や制― 15 ―
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