鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
261/620

― 250 ―彩」の登場が関っていると考える。康熙年間の末期から試みられ、雍正年間において開花した粉彩は、西洋の七宝工芸から取り入れた顔料を基に、従来の五彩にはない、自由で細密な絵付けを可能にした技法である。康熙から雍正へという転換は、彩磁においては、五彩から粉彩への転換と言い換えてもよい。彩磁の主流は、雍正年間以降、圧倒的に粉彩へと転換した。釉下彩の青花もまた、この陶磁史上の大きな転換と無縁ではなかったのである。康熙年間までの青花が発展させてきた意匠の一つに、山水がある。水の広がりや山襞を濃淡の青花であらわす山水意匠であるが、雍正年間以降は、青花よりもさらに自由な画法を保証する粉彩へと取って代わられる。「粉彩藍料山水文盤」〔図17〕(台北・国立故宮博物院蔵)は、青い顔料を使い、繊細な筆致の山水表現を達成している。また康熙官窯の後期から行なわれたとされる墨彩も、水墨画さながらの表現領域をもつ技法であった。「墨彩山水人物文筆筒」〔図18〕(ボストン美術館蔵)は、水墨の味わいを磁器の絵付けであらわす際に、もはや青花の青にすべてを委ねなくとも、墨本来の黒色で絵付けが可能になったことを示している。このような粉彩技法の出現と発展によって、山水や人物など、康熙年間までは青花が担ってきた部分の多くを、雍正年間以降は粉彩が占めるようになった。この青花から粉彩へという転換が、雍正・乾隆官窯の青花が倣古へ転換し、康熙官窯が青花の創造性の終極点となった一因だったのではないだろうか。⑵ 史料にみる青花磁器の価値づけの推移では次に、以上述べてきた、康熙官窯から雍正・乾隆官窯にかけての作例における青花磁器の変化を、史料において跡づけてみたい。康熙官窯の記録である康熙54年(1715)劉廷機『在園雑誌』と、乾隆官窯の記録である『陶成紀事碑記』などにみられ記述を比較することで、十八世紀初めの康熙年間から、十八世紀後半の乾隆年間へ、青花磁器に対する見方や価値付けがどのように推移したのかを考察する。① 劉廷機『在園雑誌』巻四(注7)(以下の傍線はすべて筆者による)近復郎窯為貴、紫垣中丞公開府西江時所造也。倣古暗合、与真無二。其摸成、宣(中略)。見青花白地盤一面、以為真宣也(中略)。磁器之在国朝、洵足凌駕成宣、可与官、哥、汝、定■美。

元のページ  ../index.html#261

このブックを見る