― 252 ―唐英(1682−1756)は、雍正6年(1728)に景徳鎮官窯の督造官に任命され、雍正・乾隆両官窯において三十年近く任に当たった。「陶成紀事碑記」『浮梁県誌』(乾隆8年(1743)、乾隆48年(1783)、後補)に収録されている。「陶成紀事碑記」は、乾隆官窯の製品、全五十七種を高らかに謳い上げる記録であるが、その分類方法には、徹底して〈倣古〉と〈新製〉の意識が貫かれていることに注目したい。特に全五十七種のうちの三十二種に「倣」字が冠せられていることからは、改めて乾隆官窯における倣古の重要性がわかる。一方、過半を占める倣古作に比べて、「新製」と銘打たれた陶磁は次に挙げる八種にとどまる。「新製法青釉」「新製西洋紫色器皿」「新製抹銀器皿」「新製彩水墨器皿」「新製山水、人物、花卉、翎毛、倣筆墨濃淡之意」「新製倣烏金釉」「新製西洋烏金器皿」「新製抹金器皿」である。それでは、「陶成紀事碑記」の書かれた乾隆年間において、青花はどのような位置を占めているのだろうか。康熙官窯の記録である⑴『在園雑誌』では、青花は宣徳や成化の名と共に重要視されていた。しかし乾隆官窯の記録⑵「陶成紀事碑記」では、「倣青花黄地器皿」と「倣嘉窯青花」「倣成化窯淡描青花」の三種が、わずかに青花に減少している。他に、青花釉裏紅とみられる記述として、「釉裏紅器皿、有通用紅釉絵画者、有青叶紅花者」があるが、これを合わせても青花は五十七種中、四種のみにとどまる。特に、康熙官窯の史料に頻出した宣徳青花が姿を消しており、全体に青花に対する関心が薄れている。宣徳については、青花ではなく「霽紅」「霽青」といった単色釉に「宣窯」が冠されており、単色釉の名窯といったとらえ方がなされている点にも注目しておきたい。こうした青花に関する関心の後退に比べて、新しく現われてくるのが「新製彩水墨器皿」と「新製山水、人物、花卉、翎毛、倣筆墨濃淡之意」といわれる、黒色顔料で上絵付けをする墨彩〔図17〕の記述である。水墨画に似た陶磁意匠は、かつて明末清初から康熙年間にかけては山水に特徴的な形式を築いた、釉下彩の青花こそが担っていた。その領域が乾隆官窯では、青花ではなく「新製」のおそらく釉上彩である粉彩や琺瑯彩技法による墨彩に取って代わられている。ここにおいて、史料の上でも、かつて青花が開拓してきた〈新しさ〉の領域が、さらに微細かつ技法的な自由の下に実現できる粉彩・琺瑯彩へ移行したことがわかる。その結果として、〈倣古〉と〈新製〉の調和の内に形成される官窯において、青花の
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