鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 253 ―役割は〈新製〉から〈倣古〉へと推移し、今に残る作例にみるように、乾隆官窯の青花は、明官窯の真に迫る倣古へと収束していったと考えられる。同時に、青花が〈新製〉の領域を担った最後の時代、康熙官窯の青花こそが、長く続いた青花の創造性の終局地点となったともみなせるのである。むすび─〈中華〉と〈外夷〉:康熙官窯の置かれた世界本研究では、〈倣古〉と〈新製〉という、清官窯の両輪を視野に置くことで、康熙官窯から雍正・乾隆官窯へ大きな変化を遂げた青花磁器の歴史と、その変化の意味を考察した。康熙官窯においては、特に、本研究で〈新しい倣古〉と呼んだ青花の一群、すなわち、〈倣古〉であると同時に〈新製〉である、その両者の交わるところに開花した清新な青花に注目した。康熙官窯の創造的な活力の一端が、〈新しい倣古〉の青花磁器に湧出したといえるだろう。清朝陶磁については、精巧で美麗な新しい彩磁である粉彩や琺瑯彩が注目される傾向にあるが、前述のような様々な史料を辿ってみると、過去の陶磁器、とりわけ前代に当たる明時代の陶磁との比較という視点が張り巡らされ、いかにこれに学び、乗り越え得たかという評価の視座が示されていることに気づく。清官窯の全体的な設計の中には、〈古〉のイメージと、どのように向き合うかという姿勢が強固に存在していたといえる。またさらに興味深いのは、その倣古の対象となった〈古〉が、唐宋と明官窯の陶磁であり、蒙古民族による異民族王朝・元の陶磁については「名窯」として言及されるものが極端に少ない点である。このことから推察できるのは、清官窯の倣うべき〈古〉の名窯とは、唐・宋・明という漢民族の王朝が築いてきた、中華文化を体現する陶磁であったことである。中華文明の永い歴史は、〈中華〉と周辺異民族〈外夷〉の抗争と交流の中に編まれている。満州民族という異民族が中国を支配した清朝においては、皇帝といえども一面では〈中華〉に対する〈外夷〉であり続けた。しかし民族的に〈外夷〉であっても、〈中華〉文化の後継者、護持者である皇帝像を内外に示すことで、満州皇帝は中華を支配する正統な権利を主張できたとされる。すなわち蛮族であり続けたそして〈中華〉文化の体現する陶磁を示していたと考えられる。清朝前期は、清朝の中国支配を確立した時期であり、いかに〈中華〉世界に対峙し、これを掌中に収め、護持し、そして凌駕したかを政治と文化の両面で探り求めた時期であった。青花磁器は、こうした〈中華〉文化の一つとしてとらえられ、〈倣古〉の

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