鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 258 ―量感のある奥行きの深い体躯の表現は古様であるが、畿内の9世紀の神像に比べると、面貌や体躯の肉取りがやや穏やかとなっており、制作時期は10世紀とみられる。本像は、神像には珍しい立像形式であり、膝をまげて立つ姿勢をとる。霧島神を祀る神社は、霧島連山を取り巻くように多数存在しており、本像が祀られている某Ⓐ霧島神社は、熊本県南部の球磨地域に存する。本像の存在は、南九州にあっても、すでに10世紀には俗体形神像が造像されていたことを示す貴重な作例である(注7)。〈平安後期の状況〉 霧島周辺でも平安後期になると、各地に神像が祀られるようになる。主要な作例は、以下のとおりである。⑥木造男神坐像、⑦女神坐像〔図6、7 宮崎都城市・千《考察》霧島連山は、10世紀半ばころ書写上人性空(910?〜1007)が法華経を読誦して山林修行を重ね、神社や神宮寺の造営事業を行ったことが知られている(注9)。近年の研究によれば、南都・官大寺僧の活動が地方の造像に影響を及ぼしたことが指摘されているが(注10)、性空に代表されるような山林修行僧を介して、平安初期の畿内の神像造像が地方に伝播した可能性も十分に想定されるであろう。ところが11世紀後半になると、①阿蘇社祝11〜12世紀になると阿蘇・高千穂・霧島の複数の神社に、俗体形神像が登場する事実も注目されるが、この現象を史料面から検討してみたい。阿蘇社に関する正史上の記事によれば、9世紀にはしばしば神霊池の枯滅等が報告され、奉幣や神階上昇が繰り返されたが、10世紀には名神大社制定の記事がみえるのみである。■■■■■■■足神社蔵〕: 樟材、一木造り、彩色像。像高・男神像60.1センチ、女神像47.4センチ。男神像は大振りの巾子冠と袍を着け把笏、女神像は大袖と鰭袖衣をまとい三道相をあらわす。張りのある面貌表現や奥行きの深い体躯などから、いずれも平安末期〜鎌倉時代初期の制作とみられる。男神像(4躯)、女神像(1躯)のうち4躯は早くに宮崎県指定文化財になっているが(注8)、今回の調査で、あらたに同時期の男神像が1躯確認された。また、男神像のうち1躯の像底には、「霧嶋」と墨書されており、本像が霧島神として造像されたことが解る。神名が判明する、この時代としては珍しい作例である。が「御正体」を背負って逃脱(寛治元年(1087・注11)、②社僧が「阿蘇社御体」を背負って阿蘇天宮(山上神社)に安置(寛治7年(1093・注12)、③阿蘇別宮の「御正体3体」が焼亡(承徳2年・1098)などの「御正体」にかかる記事が立て続けに認められる。これらがすべて「神像彫刻」についての記事であるのか断定しにくいが、③の「御正体3体」焼亡を伝える記事は、

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