5.まとめワーグマンが日本美術史にその名をとどめる最大の理由が、五姓田義松と高橋由一の二人に西洋絵画を手ほどきしたことにあった。また、明治初期洋画は「何」を描くかよりも「どう」描くかという技術的な興味が先行していたことも過去常々指摘されてきた。だとすれば、ワーグマンの技術を措定することは、明治洋画史研究の要であるはずなのに、この問いは等閑視されてきたといえる。そこで本研究では、義松や由一、その他多くの当時洋画を志した人々の眼前にあった技術を具体化することを試みた。最後にまとめとして、本研究から見えてくる意義を示し、本稿を終えよう。作年代の特定などが、今後より柔軟におこなうことが可能となるだろう。高階秀爾氏が「和製油画」という枠組を提示した(注8)。西洋絵画技術を受容するにあたり、それまで培った造形感覚をもって受容するという行為者の、その主体性への注意を促したものと報告者は理解した。以前は移植文化史観という、西洋の技術、思想をそのまま学ぶことに評価点を見出し、その技術や思想を選択的に摂取すること、あるいは変容させることはより価値が低いとされたこともあった。そのことに反意を唱える意味でも氏の提言は貴重で、報告者も賛意を示すところである。そして、この提起の真意はまたワーグマンについてもあてはまる。西洋絵画を受容する日本側の、すなわち受容者側から見ればワーグマンは学習対象であって、受容者側を主とすればワーグマンは客となる。しかし、彼もまた同様に主体性のある一人の画家として論じるべきだ。従来、義松や由一の師として、客体として静的な存在と無意識下にとらえてしまったことも、彼の様式論が深まらなかった一因ではなかったか。だが、本稿で論じたように、彼もまた成長をつづけた一人の画家である。また、その成長の軌跡を意識しなければ、義松や由一の学んだ内容もより具体的に明らかにすることは叶わないだろう。たとえば、同じ論考の中で高階氏は和製油画のひとつの特徴として、画中空間の浅さを指摘している。確かに東アジアの造形世界で古来より続く感覚が基底にあるともいえるだろうが、あわせてワーグマン学習のひとつのあらわれとも理解することが可能だ。先に指摘したように、それはまたワーグマンの様式的特徴だったからで、およそ1870年代になると広がりのある空間がようやくワーグマンもこなせるようになったばかりだからだ。近年、作家や作品のナショナリティについての議論が高まっている。その流動性を常に意識することはやぶさかでないが、ワーグマンについては、再度、彼もまた一人の画家として、より積極的に日本美術史の文脈の中でその定位を探ることが望ましい― 16 ―
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