3 中〜南九州の八幡と熊野信仰の神像⑴ 八幡信仰の神像― 259 ―明らかに彫像を示すものである(注13)。おそくとも11世紀後半には、阿蘇神社等に「神像彫刻」が存したことが、史料上からも裏付けられるといえよう。これは、どのような事情によるものであろうか。古代末〜中世の日本では、畿内の王城鎮護二十二社にたいして国ごとの鎮守神が定められ、「一宮」とよばれた。この一宮制は、国家的神社制度として11世紀末〜12世紀初頭にかけて成立したと考えられている(注14)。また、これに先立ち10世紀〜11世紀にかけて、国司の就任儀礼として任地国内の諸神社への「国司神拝」が一般化しており、その簡略化・形式化にともなって任国を代表する神■=一宮への神拝が成立したとも指摘されている(注15)。平安後期には、前代までに比べて各地の主要神社で俗体形の男女神像が増加する。これは阿蘇高千穂地域に限らない傾向であるが、その背景には、一宮制の整備確立と軌を一にした、国家的な要請が考えられるのではないだろうか。つまり、国司神拝の一般化から一宮制が成立し、中央政府が積極的に地方神■に関与していった過程で、それまで畿内の大社で祀られてきた神像の形状(俗体形)にならって、各地域でも同型の神像制作が慫慂され祀られるようになった、という枠組みが想定できるのである。史料によれば、応徳2年(1085)筑後国高良宮、承徳2年(1098)筑前国感神院、永久元年(1113)伯耆国第三鎮守会見宮、元永元年(1118)大和社三所宝殿、長承2年(1133)筑前国宗像社、のそれぞれ「御躰」が焼亡し、いずれも再造像されている(注16)。とくに筑後国高良宮の場合は、大宰府と筑後国衙が協力して神殿と「御躰」を造進するべく宣旨が出されたことも知られる(注17)。中央政府による地方神■への関与、神像造進を示す好適な例である。阿蘇・高千穂・霧島という地域的な神■信仰にもとづく神像を取り上げたが、調査の過程で当地には、八幡・熊野信仰系の平安期の神像も存することが判明してきた。⑧木造僧形神坐像、⑨木造女神坐像〔図8 熊本荒尾市・野原八幡宮〕: 樟材ヵ。一木造り(僧形神像は内刳りなし。女神像は背面に長方形の背板状に穴をうがち内刳りする)、彩色痕あり。僧形神像高59.0センチ。女神像高59.5センチ。僧形神像は、歯相をあらわし、両像共に三道相もあらわす。野原八幡宮に祀られている本像は、僧形八幡神像と比咩神像とみられる。大きく眼を剥いた張りのある面貌と量感のある体躯
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