― 260 ―から11〜12世紀ころの作と思われる。熊本県北部の野原庄は七百丁余の大型庄園で、11世紀末までには宇佐八幡弥勒寺領として寄進されている。野原八幡宮は野原庄の鎮守神であり、その勧請にあわせて本像も造像されたものと考えられる。⑩木造女神坐像〔図9 熊本植木町・某八幡宮蔵〕: 針葉樹材(桧材ヵ)。一木造り、膝前別材欠失。像高37.8センチ。眦を吊り上げ三道相を表し、鰭袖衣をまとう女神像。面貌を浅く彫り整え、張りのある頬の造形から11〜12世紀の作例とみられる。本像は、熊本市北郊外の山間の八幡宮に祀られており、他に鎌倉時代にさかのぼる神像群、獅子頭なども祀られている。⑪木造女神坐像〔図10 熊本球磨郡・某八幡宮〕: 樟材、一木造り、像高現状71.8センチ。大袖の衣と鰭袖衣をまとい腰帯を締めて胸前で両袖を重ねる姿の女神像である。頭部を失い大破していることが惜しまれるが、等身大の大型神像で奥行きの深い体躯、量感ある下半身の造形をみれば、11〜12世紀の作とみて誤りない。本像が祀られている某八幡宮の位置は、律令時代に球磨郡の郡衙が設置されていた地域と目されており、古代においては同地域の政治の中心地であったとみられる。この八幡宮も郡衙に併置された八幡宮であった可能性が高い。⑵ 熊野信仰の神像⑫木造女神坐像〔図版なし 熊本玉名市・某熊野神社〕: 樟材、一木造り、像高現状74.8センチ。左膝を立てて座し両手を左膝上に置く体勢の女神像。頭髪を振り分け状に彫出し、左肩と右背面にかかる。大袖の衣と鰭袖状の衣を着け、腰帯を締めている。朽損のため像の中心部に大きなウロが生じており、右顔面まで損失していることが惜しまれる。しかし、残された左面貌はやや浅めに彫り整えられ、畿内の大社の神像を想起させる優れた作域で、⑪女神像以上の量感である。制作時期は、11〜12世紀ころか。本像が祀られている熊本県北部・玉名市の某熊野神社境内には、律令時代の肥後山本郡の郡寺遺跡が存する。本社も郡寺関連の神社として勧請された可能性があろう。なお、本像については、信仰上の理由から画像の掲載を差し控えた。《考察》肥後国内でも八幡および熊野社は、はやくから勧請されたが、注目されるのは、野原八幡宮の⑨・⑩神像の場合のように大規模所領の鎮守神的神像として造像されるケース、⑪・⑫女神像のように律令時代以来の郡衙や郡寺などに関連した政治の中枢に祀られるケースである。現在のところ、これらの神像はいずれも平安後期に制作されたものと想定される。
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