鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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5 まとめここまで中〜南九州の平安時代の神像、未完成仏神像について検討を加えてきた③  しかし、当地で本格的に俗体形の神像が制作され祀られるようになるのは、11〜12世紀である。このことは、中央政府による一宮など地域神■への統制と深い関係があると考えられ、それは史料上からも窺うことができる。また、八幡や熊野系神像も11〜12世紀には祀られるようになるが、ゆかりのある大規模庄園の鎮守神像としての勧請、あるいは各地の古代郡衙・郡寺など政治的中枢地に祀られるケースである。注⑴ 熊本県立美術館編『熊本県内神社関係歴史資料調査報告書』2002年3月、同『阿蘇高千穂地域歴史資料調査報告書』2008年3月。ほかに、拙稿「熊本・阿蘇高千穂の神像調査」『月刊文化財 512号』第一法規、2006年5月。― 262 ―②  中〜南九州でも10世紀ころには俗体形の神像が登場する(⑤男神像など)。これは、霧島山麓の性空伝承に象徴されるような山林修行僧の活動を介して、畿内の神像造像が伝播した可能性が考えられる。④  像の表面にノミ目を残し、螺髪・衣文等を刻まず平滑に省略的に彫出する未完成仏神像も、古代豪族ゆかりの氏寺等で相当数見受けられる。肥後では、9世紀前半には「吉祥悔過会」が催行されていたことも知られ、地方豪族レベルの氏寺では神仏習合的な像も祀られていたことが想定される。中〜南九州の神像彫刻について、平安時代を中心に調査成果の紹介と若干の考察を行ったが、今後とも各地方の神像調査を重ねることで、畿内の神像研究だけではカバーしにくい、神像の発生と展開の研究に寄与できるものと考えられる。なお、本稿では言及できなかったが、今回の調査を通じて、鎌倉時代以降の神像彫刻も多数確認された。また、当地で在銘の作例が見いだせるのは14世紀以降で、それらは、いずれも素朴な作風の神像である(注20)。これらの神像についての考察も、これからの課題である。悔過会が催行されていたことがわかる(注19)。地方における吉祥悔過会の古例として注目されよう。が、以下のようにまとめられる。①  阿蘇高千穂地域では8世紀末に神前読経の記録があるが、現在までの調査では9世紀以前にさかのぼる僧形神像等は確認できない。

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