鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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⑶ 『日本後紀』巻二、延暦13年3月条。同巻五、延暦15年7月条。⑷ 『続日本後紀』巻七、承和5年3月条。⑸ 防犯上と信仰上の理由から、すでに著名な作例を除いて所蔵神社名は非公開とした。⑹ 『続日本後紀』巻六、承和4年8月条。『三代実録』巻一、天安2年10月条。⑺ 拙稿「熊本球磨郡・霧島神社の男神立像」(『佛教藝術』270号、毎日新聞社刊、2003年9月)。⑻ 宮崎県教育委員会・文化庁編『郷土文化財基礎調査報告第3集─県南部地区の美術、工芸品』5月)「筑後国高良宮(中略)  同日宣旨云、神殿并御躰府国相共可造進、兼又仰七道諸国、転読仁王般若経、令攘除疾疫兵革等者、(以下略)」⒇ 調査で確認された最古の在銘像は、正和5年(1316)銘、文保年間(1317〜18)銘の男神像。― 263 ―⑵ 阿蘇の主神は「健⑼ 『扶桑略記』巻二八、寛弘4年3月条。薩摩・大隅・日向の地誌『三国名勝図絵』にも性空の⑽ 長坂一郎「平安時代前期における南都諸宗の地方寺院経営と木彫像の制作─元興寺法相宗の場合を例として─」(『佛教藝術』206号、毎日新聞社刊、1993年1月)、鈴木景二「都鄙間交通と在地秩序─奈良・平安初期の仏教を題材として」(『日本史研究』379号、日本史研究会刊、1994年3月)。⑾ 『百練抄』巻五、寛治元年4月条。⑿ 『後二条師通記』、寛治7年5月条。⒀ 「壬生文書 卜部兼文勘文」『鎌倉遺文』10527号(東京堂出版刊、1978年2月)。⒁ 岡田荘司『平安時代の国家と祭祀』(続群書類従完成会、1994年1月)、中世諸国一宮制研究会編『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書店、2000年2月)、同編『中世一宮制の歴史的展開 上・下』(岩田書店、2004年12月)、井上寛司『日本中世国家と諸国一宮制』(岩田書店、2009年2月)など。⒂ 水谷類「国司神拝の歴史的意義」(『日本歴史』427号、吉川弘文館刊、1983年12月)。⒃ 注⒀、前掲史料。⒄ 「西大寺文書九 治承記紙背」(『大宰府・太宰府天満宮史料 巻五』太宰府天満宮刊、1969年⒅ 鈴木麻里子「山梨・慈眼寺の鉈彫像と神仏習合像にみる未完成表現について」(『佛教藝術』⒆ 『平安遺文 金石文編13号』「熊本県浄水寺址石碑銘」、のち熊本県豊野町教育委員会編『肥後314号、毎日新聞社刊、2011年1月)■■■■■■■■■■磐龍命」。10世紀には「阿蘇三神」となり12世紀には「阿蘇12神」として固定した。(宮崎県教育委員会、1965年10月)。伝説が多数採録されている「応徳二年二月十一日、筑後国高良宮坂本大明神南宝殿焼亡、御躰等同以焼亡、 承徳二年二月十一日、大宰府言上、肥後国阿蘇宮別宮宇保多々若宮神殿并御正躰三躰焼亡、 同年十二月八日、筑前国感神院殿并御躰等焼亡、 永久元年四月廿一日、伯耆国第三鎮守会見宮神殿御躰等焼亡、 元永元年二月九日、大和社三所宝殿御正躰焼亡、 長承二年九月十一日、筑前国宗像社神殿御躰焼亡、 已上、被造立神殿御躰等畢、(以下略)    」国浄水寺古碑』(同町刊、2004年10月)に改訂収録されている。

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