鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1 平等院鳳凰堂に関する先行研究㉕ 庭園施設と阿弥陀堂の建立─法華寺阿弥陀浄土院と平等院鳳凰堂─研 究 者:早稲田大学奈良美術研究所 招聘研究員  三 宮 千 佳はじめに平等院は宇治川の岸辺に位置しているが、藤原頼通が亡き父道長より受け継いだ別業を永承7年(1052)3月28日に寺院とし、「平等院」と号したことにはじまる。そして翌天喜元年(1053)3月4日に阿弥陀堂すなわち鳳凰堂が完成し、本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置された。この鳳凰堂は、区画の中心に配置されている阿字池の中島に東向きに建ち、本尊を安置する中堂を中心として翼廊と尾廊が付属している。この平等院の前身施設は左大臣源本研究では、この平等院鳳凰堂の建築と池の配置の源流、および発願理由と動機について、奈良時代の法華寺阿弥陀浄土院からの影響を検討しながら論じてみたい。鳳凰堂の発掘調査結果によると、創建期の鳳凰堂と池の景観について、現在と異なる点が指摘されている〔図1〕(注2)。鳳凰堂が建つ中島は、現在よりも5〜6メートルほど小規模であったこと、左右の翼廊は基壇の上に建っていたのではなく、中島の州浜から直接立ち上がっていたこと、阿字池は現在よりも最大で10メートルほど広かったという。小野健吉氏は、創建当初の平等院鳳凰堂と池の配置について、大きな池の西端に小さな中島が浮かび、そこに檜皮葺の阿弥陀堂が東向きに建てられ、まるで水面から浮き立つような姿であったと解した(注3)。また注目すべきは阿弥陀堂の正面(つまり東面)の対岸が小石敷で宇治川まで連続していたことで、朝日・仏徳山をはじめ周辺の優れた自然の眺望をも景観として取り入れて造られたのである。明治の関野貞氏以来、この鳳凰堂の源流の研究に多くの先学が取り組んできた。明治28年(1895)に関野貞氏は、建築史の立場から鳳凰堂建築の中堂を中心とし翼廊を従える平面形式に初めて着目した。そして平安宮朝堂院内の大極殿の平面形式に■■■■■■■■融の別業で、源融の死後は宇多天皇の所領となり「宇治院」と呼ばれていた。道長は宇治院を入手してから、出家後の治安3年(1023)8月11日には法華八講を行っていることから、福山敏男氏はこのころ宇治院が寺院化の方向へ一歩ふみ出したと解している(注1)。そして万寿4年(1027)12月、道長が亡くなると宇治院は頼通に受け継がれ、「父の晩年の希望に従って」寺院化が実現したと述べている。― 266 ―

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