― 267 ―共通点を見出している(注4)。その後、昭和2年(1927)頃には鳳凰堂の建築が、寝殿造あるいは阿弥陀浄土図の建築に影響されているという見解があった。そこで絵画史の源豊宗氏は、鳳凰堂建築の意匠を鑑みれば、実用的な寝殿造建築より浄土変相図の中の建築のほうにより影響を受けたと解している(注5)。昭和10年代になると庭園史の森薀氏が、鳳凰堂では建築の前面に池をもつことに注目し、このような形式の庭園を「平等院庭園」と定義し、池の配置は高陽院の影響であると述べた(注6)。福山敏男氏は昭和39年に、寺内の仏堂に池を造るということが、京都では10世紀の半ばにはすでに行われていたとし、それらは神泉苑の系統をひく寝殿造邸宅の前庭に池を掘る方式の影響であるとした。そして鳳凰堂の平面形式は従来説のように浄土変相図の建築や平安宮の宮殿建築と類似することを認めつつ、池と建築の配置は神泉苑や貴族の寝殿造邸宅の影響を受けていると解した(注7)。しかし福山氏の見解が先行研究より優れている点は、寝殿造では池は前庭に造られたが、平等院鳳凰堂は池の中島に建てられたことに気づいたことで、福山氏はそのことを「一段の進歩」と解している。このように鳳凰堂の最も大きな特質は、池の中島に建てられている点であり、その理由の検討が、鳳凰堂の源流研究の出発点となるのである。太田静六氏は鳳凰堂建築の平面形式に着目し、智光曼荼羅や当麻曼荼羅の宝楼閣の影響とする見解に賛同し、さらに中国に源流を求め、唐長安城大明宮の含元殿の建築の平面形式との比較を試みている(注8)。含元殿の影響関係は即座に賛同しかねるが、太田氏が、このような唐代の宮殿建築をもとに浄土変相図の建築が画かれたと解していること、また森薀説と同様に高陽院の池と建築の配置との関連を示唆した点については検討していきたい。清水擴氏は、鳳凰堂建築の最大の特徴は翼廊そのものが楼造で下層が吹放しとなっていることとし、清海曼荼羅との関連を指摘した。清水氏の指摘の通り、鳳凰堂の翼廊は楼造で吹放しになっている点が特徴的であり、この翼廊の源流や機能についても検討課題の一つである(注9)。このように福山氏の研究以後も鳳凰堂の建築平面の源流については浄土変相図説と宮殿建築説、池と建築の配置の源流については寝殿造説が支持された。しかし、寝殿造では池は建物の前庭にあるのに対し、平等院鳳凰堂は池の中島に建立されているのである。先行研究ではなされなかったが、その意義を検討するためには、奈良時代において発掘調査の結果池の中に堂宇が建立されていたことが分かった法華寺阿弥陀浄
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