2 寝殿造邸宅と鳳凰堂、阿弥陀浄土院鳳凰堂の先行研究では、建築と池の配置について平安時代の寝殿造の影響を指摘する見解が主流であった。寝殿造といえば9世紀は冷泉院、10世紀では藤原道長の土御門殿、枇杷殿など枚挙に遑がないが、貴族の邸宅の様式であるから、区画の中心は正殿(寝殿)と東西の対屋と、それらを連結する渡殿である。池は建築の前面(南方)に穿って庭園とし、年中行事や宴などの儀式において舟遊びや歌舞音曲を楽しんだ。つまり寝殿造は、建築が主であり、池(庭園)は建物の前面に配置された。しかし鳳凰堂の区画をみると阿字池が中心装置であり、その中島に建物が建てられているから、寝殿造形式とは異なるのではなかろうか。― 268 ―土院との関連を検討しなければならない。そこで次章より拙稿での検討をもとに鳳凰堂の建物と池の配置を考えてみたい。ところが寝殿造でも池が中心となっている施設もある。例えば寝殿造の最初期の例の桓武天皇創立の神泉苑は、太田静六氏が復元した嵯峨天皇弘仁期の平面図を見ると〔図2〕、縦長の長方形の区画の中心に大きな池が、またその池の北側に正殿(乾臨閣)があり、左右の翼廊は両角で直角に折れて正面では釣台が池に臨んで設けられている。つまり神泉苑では池が中心装置なのであり、建築は池での舟遊びや宴を鑑賞するためのものであった。また11世紀初頭の例になるが、藤原頼通の邸宅として再建された高陽院の太田静六氏による想定復元平面図〔図3〕では、敷地の中心部に南池と後池があり、その二つの池の間の平地に寝殿と対屋と渡殿を配置している。この頃高陽院では建築だけではなく、池も中心的な装置となっているのである。さらに道長の法成寺では、寛仁4年(1020)から無量寿院(阿弥陀堂)の造営がはじまったが〔図4〕、その伽藍は寝殿造とも異なる独特の配置で、区画の中心に巨大な池が穿たれ、それを囲む形で無量寿院、金堂、薬師堂そして回廊が造られていった。このように区画の中で、①建築を中心装置とし池が配置される施設と、②池自体が中心装置となり建築が配置される施設がある。先行研究ではこの違いが指摘されることはなかったが、私はこの相違点こそが施設の性格を考える上で重要であると考えている。この②の池自体が中心的装置であってそれに建築が付随している施設は、奈良時代、そして中国にも存在している。例えば拙稿で以前論じた法華寺阿弥陀浄土院の区画では、池が中心的な装置であり、池の中に本堂とも思われる大型礎石建物が建立さ
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