― 269 ―れた(注10)。この阿弥陀浄土院の区画はもともと藤原不比等邸の庭園であったが、邸宅が皇后宮となったので「西花苑」とよばれていた。この「苑」とは中国古代の皇帝の直属の庭園であり、池を中心とした施設で臣下とともに舟遊びや宴を楽しむ場所であるが、この阿弥陀浄土院のあった場所もまた、不比等や天皇家のための庭園・苑であったのである。中国古代から伝わった皇帝の苑は、わが国でも天皇の苑として受容されたが、貴族の邸宅では、嶋大臣(蘇我馬子)の邸宅を初めとし、「苑」を縮小化したかたちで建物の前面に池を配し庭園を形成した。つまり区画に池がある場合、それはすべて中国古代の「苑」に通じる庭園施設であると考えられるのである。さらに拙稿でも論じたが、中国古代では、浄土変相図を画く場合、見たこともない浄土の風景を描き出すにあたってこの皇帝の「苑」の池と建物による景観を参考にした(注11)。つまり「苑」とは仏の浄土の景観そのものだという認識が古代中国の人にはあり、それがわが国の古代の人々にも伝わって、法華寺阿弥陀浄土院が造営されたと考えたのである。ところで中国皇帝の苑やわが国の天皇家の苑は、規模が大きく、池の周りに様々な役割の建築や櫓が点在しているというスタイルであった。法華寺阿弥陀浄土院の区画でも、前身の苑(庭園)では建築が点在していたが、阿弥陀堂造営の際にそれらを一掃し、池と阿弥陀堂(『正倉院文書』では金堂と記されている)一宇を中心とする施設として改変された。このスタイルは当時としては画期的なものであり、また皇后の最後の造寺として注目された。私は、この皇帝の「苑」=浄土の景観という認識、また阿弥陀浄土院の伽藍配置が平安時代に受け継がれたのではないかと考えている。また、近年阿弥陀浄土院の前身施設として橘三千代の「観無量寿堂」が注目されているが、母三千代から光明皇后へ、観経信仰が伝えられたことも想像に難くない。十六観のうちの第十三観「雑想観」では、観想の仕上げとして池中に丈六の阿弥陀仏及び観音、勢至像を観ることが説かれている。一方、『正倉院文書』「造金堂所解」では、阿弥陀浄土院の本尊は丈六三尊像であることが分かるから、あるいは光明皇后が『観経』第十三観をもとに池の中に堂を建てそこに丈六仏が安置されたとも考えられるのである。おそらくこの阿弥陀浄土院の建物の池の配置が神泉苑に受け継がれ、池を中心として主要建物を一宇建てる配置となったのであろう。また貴族の邸宅では、前時代と同じように建築の前面に前庭をつくった。こうした平安時代の邸宅が近代以降便宜上「寝殿造」と呼ばれたのである。そして平等院鳳凰堂では、巨大な池が区画の中心装置となり、その池の中島に阿弥陀堂が建立され丈六阿弥陀仏を本尊とし、周辺の自然
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