鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
281/620

3 興福寺僧林懐の法華寺別当就任と藤原道長平等院鳳凰堂を発願する際に、もし頼通が奈良時代後期の法華寺阿弥陀浄土院を意識しているとしたら、藤原家と奈良朝との関連を検討しなければならない。先述のように福山敏男氏は平等院の発願にいたった理由(背景)について「父(道長)の晩年の希望」としている。また福山氏は、「この地に阿弥陀浄土の宝閣を実現させた頼通の構想は、おそらく突然に彼の胸に浮かんだのではなく、その基づくところは、案外に早くから先人たちが描いていた夢であったのではなかろうか」と、発願の理由について想像している(注12)。― 270 ―の眺望をも景観として取り込んだ。つまり寝殿造建築も鳳凰堂も法華寺阿弥陀浄土院、また皇帝や天皇の「苑」、そして観経信仰による阿弥陀浄土に通じる施設なのである。『栄華物語』をみると、法成寺や平等院につくられた池を見て、人々は「まるで極楽浄土の風景」のようだと評している。つまり、鳳凰堂は頼通だけの構想ではなく、道長の信仰や寺院化のための構想を頼通が受けついだと考えてみたい。すると道長と奈良の寺院や信仰とのつながりがみえてくる。長徳元年(995)藤原道兼の逝去により藤原道長は右大臣そして藤氏長者となった。権力の頂点に立ちながら長徳3年(997)ごろより道長は体調がすぐれないことが多く、病のために官職を辞そうとしたほどであった。長保元年(999)34歳のときには彰子の入内・立后という慶賀が続くが、体調はすぐれなかった。この長保元年より、道長は『法華経』の信仰をはじめ、寛弘2年(1005)以降は自邸で法華三十講がほぼ毎年恒例の行事となった。つまり道長は30歳を過ぎた頃、奈良朝の光明皇后と同じように、権力の頂点に立ちながらも度重なる体調不良などがあって『法華経』から本格的な仏教信仰に入り、その後木幡の浄妙寺造営、金峯山への埋経、法成寺造営など造寺造仏に関わっていく。私が注目しているのは、『御堂関白記』によると、道長は寛弘元年(1004)に奈良の西大寺の別当に法相宗の僧輔静を任じ、さらに法華寺の別当を興福寺僧の蓮聖から同じ興福寺僧の林懐に交代させていることである(注13)。つまりその頃法華寺が興福寺の傘下にあったこと、さらに道長が別当を交代させたということは、法華寺は興福寺を氏寺とする藤氏長者道長の支配下にあったということになる。それ以前の法華寺の別当については断片的にしかわからないが、『延暦僧録』によると、奈良時代後期には智努王が法華寺大鎮・浄土院別当であった(注14)。元慶8

元のページ  ../index.html#281

このブックを見る