― 271 ―年(884)の僧綱牒によると大納言藤原良世が興福寺、法華寺両寺の別当に就任しているから(注15)、九世紀の終わりになると藤氏長者が法華寺と興福寺の別当に就任していたようである。その後は興福寺僧の別当就任記事のみとなり、11世紀初頭には前述の興福寺僧蓮聖から林懐へ交代し、さらに『中右記』康和4年(1102)正月条によると法華寺別当に定覚を任命したことが記されているから、その後も法華寺は藤原氏および興福寺の管理下にあったと考えられる。この興福寺僧林懐は、伊勢国の大中臣氏というから、おそらく藤原氏の古くからの縁戚一族の出身であろう。『三会定一記』によると永延元年(987)37歳で竪義を受け、『僧綱補任』では長徳4年(998)に三会の講師(已講)となっている。その後も順調に出世を続け、『僧綱補任』では寛弘8年(1011)に60歳で権少僧都に任じられている。そして『御堂関白日記』『小右記』『興福寺別当次第』によると長和5年(1016)5月には道長に興福寺別当に任命され、また同日道長は林懐の代わりに法華寺別当には興福寺僧経理を就任させている(注16)。つまり林懐は法華寺別当を三会の講師になって以降、12年間勤めた。また、林懐は法成寺での法要にも頻繁に参加しており、道長と交流の深い興福寺僧であった。つまり道長は藤原氏ゆかりの出身で、また興福寺や僧綱でも高位にあった林懐に法華寺の運営を任せているのである。またちょうど同時期に、『権記』によると藤原行成は長保元年(999)法華寺を訪れ、「堂舎を巡見するに破壊ことに甚し」といい、翌年には参院し左府(藤原道長)に謁見し、法華寺に使者を出し破壊の度合いを調べさせるように進言している(注17)。つまりこのように道長やその周辺で、法華寺の管理に関与しているということは、阿弥陀浄土院の区画は庭園施設であり、その中に阿弥陀堂が建立されていることについて、荒廃が進んでいたとはいえ認識できたと思われる。またその庭園施設は不比等邸の庭園であり、皇后宮の苑であったことも理解していたと思われる。また実際に『栄華物語』巻15にも記されているように、道長は寛仁3年に東大寺で受戒した折、東大寺の規模の壮大さに感銘を受け、東大寺に倣って無量寿院を造営しようと決意したという(注18)。さらに法華寺への関与を示してからまもなく浄妙寺を再建して祖先の菩提を弔い、また寛弘4年(1007)には金峯山に参詣して、法華経、無量寿経、観普賢経、阿弥陀経、弥勒三部経、般若心経の全十五巻を金銅製の経筒に納めて奉納したのである。これらのことから道長には、自らの祖先である不比等、光明皇后、さらには聖武天皇が築いた奈良朝と仏教信仰、造寺造仏への深い関心と継承の意志があり、またその延長線上に平安朝の藤原氏が存在しているという理解があったと思われるのである。
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