4 末法思想と平等院発願の動機寺院の発願には、上記のように発願にいたるまでの歴史的あるいは思想的な根拠だ― 272 ―けではなく、発願にいたるきっかけ、つまり動機があったと思われる。平等院発願の動機を検討する上で興味深い見解がある。吉村怜氏はかつて、東大寺大仏開眼会が行われた天平勝宝4年(752)は、『日本書紀』が伝える仏教伝来の年、欽明天皇13年(552)から数えるとちょうど200年目にあたることに注目した。そして大仏造立は仏教伝来200年を記念する事業であったから、大仏が未完成だったにも関わらず、この天平勝宝4年(752)に開眼会が挙行されたと解した(注19)。つまり大仏造立については、当時の社会的、思想的背景もさることながら、この「仏教伝来200年を記念する」ということが動機になっていたと考えられるのである。なお、この『日本書紀』が伝える仏教伝来の年、欽明天皇13年(552)については、すでに論じられているように、仏滅を『周書異記』にいう周穆王53年(紀元前949)とし、三時説の正法500年・像法1000年説をとれば、仏滅後1501年目、つまり末法の1年目にあたっている。しかし一方では、仏教伝来の年が仏教の衰退を意味する末法1年目であることを疑問視し、むしろ『大集経』の五堅固説により、仏滅とする紀元前949年から後の2500年を500年ずつに五区分(解脱堅固、禅定堅固、多聞堅固、造寺堅固、闘諍堅固)すると、欽明天皇13年(552)から平等院創建前年の永承6年(1051)までは造寺堅固つまり寺院・堂塔の建立がさかんな時期にあたるとする見解がある。田村円澄氏によると、すでに最澄は仏教伝来の年について、『日本書紀』の欽明天皇13年説を支持し、仏滅を紀元前949年として現世を『大集経』の造寺堅固の期間にあたるという立場をとっていたという(注20)。さらに最澄は三時説も取り入れ、正法1000年・像法1000年説を採用し、仏滅(紀元前949年)後2001年目にあたる永承7年(1052)を末法の1年目としたと述べている。なぜ最澄が仏教伝来の年について、『日本書紀』の欽明天皇13年(552)にこだわったのか。そのころ南都の寺院では仏教伝来について『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』が示す欽明天皇戊午年(538)が有力視されていた。このことについて田村円澄氏は、最澄は南都教団が正当とする欽明天皇戊午年よりも、律令政府の官■の史書である『日本書紀』に権威を求め、欽明天皇13年説に固執したと述べている。それは桓武天皇に認められ、比叡山延暦寺がそれまでの南都教団に変わり「国家を保護し、万民を利益」するための方便であった。そして平安時代ではこの最澄が主張した「永承7年(1052)=末法1年目」説が広く世の中に浸透していったのである。藤原道長は延暦寺の円仁の弟子源信に阿弥陀信仰を教
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