鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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⑸ 源豊宗「鳳凰堂 宇治 平等院」(図版解説)(『仏教美術』第10冊、仏教美術社、1927年) 注⑴ 福山敏男「宇治平等院ができるまで」(『日本建築史研究』、墨水書房、1968年)⑵ 『発掘庭園資料』(奈良国立文化財研究所史料、第48冊、1998年)⑶ 小野健吉「浄土庭園の諸相」(『古代庭園の思想』、角川書店、2002年)⑷ 関野貞「鳳凰堂建築説」(『建築雑誌』102号、日本建築学会、1895年)。昭和12年頃、関野氏は改めて、阿弥陀浄土図のなかの建築の平面形式の影響を受けたものであるとも記している(関野貞『日本建築史講話』、岩波書店、1929年)。― 273 ―わっている。また当時僧綱では、延暦寺僧と東大寺、興福寺僧が要職に就いていた。つまり藤原家にはこの最澄による永承7年説が深く浸透したのである。先述の吉村説を援用すると、この永承7年(1052)すなわち末法1年目という年を記念することこそが、藤原頼通にとって平等院発願の動機であると考えられよう。この永承7年(1052)は、仏教伝来からは500年目であるが、東大寺大仏造立からは300年目という区切りのよい年でもある。道長がこだわってきた奈良朝の不比等、光明皇后の政治や仏教信仰と美術への憧憬と、自らもその藤原氏一員として未来にその栄光を伝えていくためには、この永承7年という年は、やはり節目の年であったのではないかと思うのである。おわりに─法華寺阿弥陀浄土院から平等院鳳凰堂へ平等院鳳凰堂の池と建物の配置は、寝殿造形式の受容というよりは法華寺阿弥陀浄土院の配置と同じく池の中に堂が建っている。私は、道長は藤原家の祖先や奈良朝の仏教信仰、造寺造仏への関心があり、法華寺についても別当の任命を通して管理をしていたこと、さらには平等院を発願した永承7年(1052)は仏教伝来500年目、東大寺大仏開眼会から300年目に当たる、律令国家開始を祝う節目の年であったことを指摘した。道長には奈良朝への意識があったのである。阿弥陀浄土院の区画はもともと不比等邸の庭園であり、皇后宮となってからは苑とよばれたという経緯から、「苑」と貴族邸宅の庭園との二つの要素を持ち合わせている。その庭園施設を極楽浄土とみなし、池を中心として、主要な堂である阿弥陀堂一宇を造営した。また、橘三千代の観経信仰が影響していたとも考えられる。おそらくこのことが、神泉苑に受け継がれ、そして法成寺無量寿院さらには平等院鳳凰堂へ伝わった。このように私は、道長が奈良朝の伝統を受け入れ、そして頼通は道長の遺志を受け継ぐことにより、平等院鳳凰堂が発願されたと考えている。

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