鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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1.宮川一笑について一笑の経歴に関しては不明な点が多く、記録からはごく断片的な情報しか得られない。名を喜平治といい、芝田町二丁目の家主を務めたという(注1)。長らく忘れ去られていたためか、浮世絵師の伝記を調べる上での基本文献である『浮世絵類考』諸本にも記述は少なく、「画系・宮川長春門人。作画期・延享─宝暦 宮川氏を称す、長春風の肉筆美人画あり。」としか書かれていない。― 277 ―㉖ 宮川派の総合的研究─宮川一笑作品の考察を中心に─研 究 者:小林忠美術研究所 研究員  稲 墻 朋 子はじめに宮川派は、18世紀前半の江戸において、肉筆画の制作のみに専念した浮世絵の流派である。開祖である長春(1682〜1752)を筆頭に、一笑(1689〜1779)、長亀(生没年不詳)、春水(生没年不詳)ら数名の絵師が知られ、当時の浮世絵界に一定の地位を占めたことが分かっている。また、春水門には勝川春章(1726〜92)が、その弟子には■飾北斎(1760〜1849)が輩出し、いずれも錦絵で人気を集める傍ら肉筆美人画の名手としても名高いことから、その源流としての宮川派を重要視する声も多い。とりわけ長春に関しては、良質の顔料を用いて丁寧に彩色された品格ある美人画が高い評価を得てきたものの、研究はそれほど進んでおらず多くの課題が残されている。弟子たちとなるとさらに言及される機会は減り、個々の絵師たちの研究は皆無に等しいが、浮世絵史上において宮川派が果たした役割を正しく評価するためには、弟子たちも含めた活動の詳細や、一派の運営形態について調べ、その全体像を把握する作業が不可欠である。本報告では、長春と並び宮川派の中心的な絵師であったと推定される一笑に注目する。一笑は江戸で活躍した後、64歳の時に新島へ配流となり、当地で91歳の長い生涯を終えた。新島には今も彼の作品がのこされ、高齢の身で島に渡り、厳しい土地での生活を強いられた一笑の身の処し方が理解されると同時に、晩年期の作画活動が確かめられる意味で研究上高い価値を持っている。江戸在住期に加え、新島時代の作品も考察対象とし、一笑の画業を総体的に振り返ることを試みたい。一笑の現存作品数は比較的多く、その画題も多岐に亘ることから、一定の人気を集めた絵師であったことは明白である。その多くは吉原遊女を描いた美人画が大半を占

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