― 283 ―ので、画を一笑が、書を小宮山佐太郎(注6)が担当している。署名は「日本絵宮川一笑」、印は「安道」(朱文方印)が捺されている。このほか、ある時期から行方が分からないものには、「屋島合戦図」(六曲屏風)、「恵比寿鯛つり図」(一幅)、明和8年(1771)に描かれた「江戸名所図屏風」(六曲一隻 署名「八十三歳翁縣安道」)などがある(注7)。このうち2点が屏風であったことを鑑みると、やはり一笑が大画面形式を積極的に手がけていた可能性は高いといえよう。新島作品の署名を見ると、「縣」(県)あるいは「藤原」の姓、名の「安道」や「蘇丸」の号を用いていたことが理解される。この時期の作品には年記のあるものが半数を占めることも興味深く、一笑が80歳を過ぎてなお健筆を揮っていた様子を伝えてくれる。また、印は「安道」(朱文方印)と「笑」(白文方印)にほぼ限定されていたことが分かる。一蝶の場合と同様、一笑の作品もまた、江戸期にすでに島から持ち出されたと伝わっており、今も当地に現存する作例はそれほど多くはない。また、新島に一笑の墓は見付かっておらず、流人墓地に埋葬された形跡もないことは残念な限りである。長い流人生活の中で、おそらくは島に溶け込み、島民からも慕われたことと思われる。今後発見されることを期待し、新島で不遇の晩年を送った一笑の画業があらためて顕彰される日を待つこととしたい。おわりに以上、簡単に一笑の画業を追い、落款ごとに各時期の特徴を指摘した。今後も引き続き現存作品を検討し、それぞれの基準作を示すことを課題としている。加えて、一笑と師の長春との比較を行い、彼の独自性について考察するとともに、宮川派内における一笑の位置付けを明らかにする作業を行いたい。例えば両者を比較した場合、画風や画格の面で相違が見出せることは既述の通りだが、あえてそうした格差をつけ、異なる支持層に向けた制作を各々が行っていたとも捉えられる。長春は、同じく上層の顧客に向けた格調高い肉筆浮世絵を多数制作した菱川師宣(?〜1694)に影響を受け、次世代における継承者となるべく古典的たることを志向した面が強い。それとは対照的に、一笑をはじめ弟子たちは、長春がそれほど関与しない客層、言い換えれば、より流行様式を好む客層を狙い作画に臨んだとの推測も導き出せる。「今」を写し取るという意味では、むしろ一笑の作画態度の方がいわゆる浮世絵師としての活動に即しているように感じられ、両者の均衡が保たれていた点にこそ、宮川
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