注⑴ 新島流人帳には、「同年同月(筆者注:宝暦二年申十一月)流罪 芝田町二丁目家主 喜平治 安永八年亥十二月十四日病死 町絵師 当申六十四歳」と書かれている。(『新島村史資料編Ⅱ 流人史』所収、新島社、1996年、225頁)⑵ 寛延2年(1749)、長春68歳の時に、狩野春賀に請われて宮川派の絵師たちが日光修復事業に参加した際、賃金を払わない狩野家側に対し、翌年の暮れに催促に訪れた長春に春賀側が暴行を加え、それに腹を立てた長春側が狩野家を襲撃。春賀は殺害され稲荷橋狩野家は断絶、春賀の息子・春潮が八丈島に流罪となり、宮川派では一笑が新島に配流となった。⑹ 小宮山佐太郎は父・源次郎が武士身分売買事件により死罪、家名断絶となったことを受け、寛延2年(1749)に新島へ流罪となった。在島27年、安永5年(1776)10月に60歳で没した。― 284 ―⑶ 田辺昌子氏作品解説『肉筆浮世絵大観』1、講談社、1994年、237頁。⑷ 田辺昌子氏作品解説(前掲注⑶、238頁)⑸ 吉田暎二「宮川長春と宮川一笑のこと 長春の秘画帖と一笑の資料発見」『季刊 浮世絵』5、緑園書房、1963年9月、10〜27頁、辻惟雄・小林忠・河野元昭「報告記 三宅・御蔵・新島三島にのこる英一蝶画蹟─宮川一笑・懐月堂安度の史料などもあわせて─」『國華』920、國華社、1968年11月、36〜46頁、安村敏信「伊豆新島の近世絵画について」『近世絵画研究会研究報告集』1、1985年9月、2〜7頁。⑺ 前掲注⑸吉田、24〜25頁。⑻ 小林忠「宮川長春と宮川派」『肉筆浮世絵』3、集英社、1982年、125〜126頁。図版出典図6 『肉筆浮世絵』3、集英社、1982年図9 『秘蔵浮世絵大観』1、講談社、1987年派の特質が指摘できるように思われるのである。一笑と長春との年齢差はわずか7歳であり、師弟関係にある一方、同志のような形で結ばれていた可能性も考えられるだろう。こうした点からも、一笑が宮川派において欠かせない絵師であったと同時に、一派を束ねる立場であった長春が、いかに弟子たちに対して自由な作画態度を許したかが理解されるのである(注8)。また、一笑に屏風や横幅作品が多いことも、彼の画が享受された場を考える上で示唆を与えてくれるかもしれない。今後も引き続き、流派内における一笑の位置付けや宮川派の運営形態、そして一派の特殊性について考察を重ね、浮世絵史上に宮川派が果たした役割を明らかにしていくことを目標としたい。
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